5年ぶり6回目セリーグ優勝 落合監督、就任1年目
プロ野球セ・リーグで中日ドラゴンズの5年ぶり6回目のリーグ優勝が1日、決まった。優勝マジックナンバーを「1」としていた中日は、ナゴヤドームで広島に2—5で敗れた。しかし、2位のヤクルトも巨人に4—6で負けたため、ヤクルトが残り8試合に全勝しても、中日を抜く可能性がなくなった。本拠地ナゴヤドームでの胴上げは初めて。満員の4万500人が見守る中、就任1年目の落合博満監督(50)は、高々と5度宙を舞った。
中日は本塁打数12球団最少の打線を、リーグ最強の陣容を誇る投手力でカバー。バントや機動力を駆使した手堅い試合運びを見せ、6月下旬から首位の座を一度も明け渡さなかった。2リーグ制になった1950年以降で、新人監督の優勝は球団史上初めて。中日は50年ぶりの日本一を目指し、16日開幕の日本シリーズでパ・リーグ覇者と対戦する。
要所で一本が出ず延長負けした中日の中で一人5安打と気を吐いたのが井端。一回の1点を左中間二塁打でたたき出した後も、単打3本に三塁打1本と本塁打が出ればサイクル安打の活躍だった。「これだけの観衆の前でプレーしたのは初めて。きょうはよかった」と紅潮した顔で話した。中日の選手会長に就任した今年は、球界再編問題に追われながらの優勝争い。「野球以外でも勉強になった」と多忙だった1年を振り返った。落合監督について聞かれると「最高です」と声のトーンが上がり、「ピンチになっても顔色一つ変えないんですから」と新監督の堂々としたさい配ぶりに舌を巻いていた。(毎日新聞)
落合流貫き1年目で優勝 自主性、適材適所、研究心
開幕前の宣言通り、落合監督が就任1年目で中日を優勝に導いた。ゴール間近。ストライキなど、グラウンド外の出来事に悩まされはしたが、自らに課した仕事はきっちりとこなした。
口には出さない。だが、いつかは監督をやりたいと思っていた。昨年10月に中日から要請があった際、ほぼ即答で受諾。その時、受話器を通して「キャンプは6勤1休。1、2軍合同で」など、落合流の方針を早くも伝えていた。その場しのぎのトレードや外国人補強を断り、現有戦力の育成で、優勝を目指す。その青写真はユニホームを着る前からできていた。秋季キャンプ初日に「やったやつだけが生き残る。好きに練習すればいい」と突き放すような言葉で強制はせず、選手の自主性を重んじた。誰にでもチャンスを与え、公式戦に出場した選手は支配下選手70人の8割を超える。選手には「チームの犠牲になる」ではなく、「自分の力を発揮する」よう説いた。力を出しさえすれば、そこから先は自分の仕事。例えばチャンスで打席に立つ打者に「真っすぐを思い切り振って、それがフォークだったら仕方ない」とアドバイスすることで狙い球を絞らせた。3度の三冠王を獲得した大打者の助言は、緊迫した場面で選手の硬さをほぐし、迷いも払しょくした。「やるのは選手。おれはかじ取りをするだけ」。選手には「一芸」を求め、バントは川相、守備で英智、代打で高橋光…、と適材適所で使っていった。
ある監督経験者は優勝の要因を「新監督は目新しいことをして自分を見失う人が多いが、落合は周囲に惑わされなかった」と分析した。野球への研究心は誰にも負けない自負がある。7月には球団幹部に、来季のキャンプ構想を持ち掛け、ペナントレースと平行して次への布石も打った。ユニホームを着ている間は、常に目指すは日本一。次は球団50年ぶりの日本一に挑む。(共同通信社 2004年10月1日 21:44)
負けて胴上げ、私らしくていいじゃない
決して孤高の人ではない。「監督、ボールを変えてみませんか」。苦戦していた5月、森投手コーチに切り出された。考えもつかなかった。投手陣を生かすには、従来のミズノ社製より“飛ばない”といわれるサンアップ社製にすればいい−。3分後、用具担当を監督室に呼んでいた。
投手心理についても、森コーチと朝まで議論。マウンドに笑って向かう姿は、2人で出した結論だ。開幕前は谷繁を呼び「投手のボールに勢いがなくなったらサインを送ってくれ」。そのおかげで何度も助けられた。
厳しさもあった。6月、鈴木投手チーフコーチが事実上の二軍降格。理由は「内(コーチ会議)で話さず、外(メディア)に話すから」(球団関係者)。そのメディアとの壁を作ったのも、オレ流。故障者情報を開示するよう伊藤球団代表に説得されても、首を縦に振らなかった。「勝つため」と信じ、徹底した。
家族も支えてくれた。監督就任を勧めた夫人の信子さん(60)はもちろん、長男・福嗣君(17)もよき理解者。8月のことだった。本拠地に“勝利の女神”として勝ち運を運んでいた夫人。その力を借りたくて、予定より1日多く、名古屋に滞在してもらった。そのとき、聞き覚えのあるメールの着信音が鳴った。『夫婦水入らずで、元気になるんだよ』。息子からのメッセージ。心が熱くなった。まだ、すべては終わっていない。「次は必ず勝って胴上げしたい。必ず日本シリーズで50年ぶりの優勝を勝ち取ります」。お立ち台で絶叫した。49年間、あの星野さんですら達成できなかった日本一を奪ってこそ、公約達成だ。(兼田康次/SANSPO.COM)
球団初新人監督頂点
史上最強打線にも容赦はなかった。ユニホームを脱がされた巨人に「特別な感情なんてない。3年間お世話になった球団だし、お互いにビジネスの話」と、私情は封印したが、勝負は別だった。6月1〜3日の巨人戦(東京ドーム)で3連敗したことで、ナゴヤドームでの使用球を“飛ばない”といわれるメーカーに変更。なりふり構わぬ防御策で、東京ドームで1試合平均1・9本塁打のG打線を本拠地で1・25本に抑え込んだ。そして、6月22〜24日の巨人戦(札幌ドーム)で逆に3タテして奪首。「野球で攻められるのは投手だけ」と、元3冠王はリーグ最優秀防御率の投手力を前面に押し出した戦いで、そのまま首位を守り抜いた。
今季、いつもバッグにしのばせて持ち運んだ「宝物」がある。チーム全員で撮影したB5サイズの集合写真。遠征先では机の上に飾り、70選手に囲まれる自分の姿を見る度、責任の重さを実感した。「選手が息子のようにかわいい」という気持ちに、偽りはない。選手に子どもが誕生すれば、必ず育児用品など、出産祝いを贈る細かい気配りも忘れなかった。
「オレ流さい配」も、ただの勝負勘やパフォーマンスでは決してなかった。試合後、自室に戻れば、ベッドの上にスコアブックや配球表を広げ、データを洗い直すのが日課だった。ナイター後でも夜食は後回し。はしよりまずは鉛筆を手にし、あぐらを組んで何時間も、戦術分析に熱中した。そのため肩こりや腰痛が悪化し、はり治療も施した。「オレの野球を理解しようとするな」その他人を拒絶するような言葉には、だれよりも野球に一途だという強烈な自負が込められていた。
都内の自宅の戸棚には、もうひとつの宝物が飾られている。それは福留と岩瀬のアテネ五輪組が、海の向こうから贈ってくれた赤ワイン。「飲まずにまだとってあるんだ。栓をあけるのが楽しみ」祝杯のコルクを抜くのは、球団50年ぶりの日本一を達成してからと、心に決めている。(橋本 純己/WEB報知)
揺るがなかった座標軸(10/02朝日新聞)
権力と呼ばれるものにおもねることを、落合博満はけっしてしない。それが彼の生き方の縦軸である。秋田工高ではほとんど練習に出なかった。映画ばかりを見ていた。東洋大は1年の8月に合宿をを飛び出て中退した。封建的な上下関係に嫌気がさしたからだ。東芝府中への入社は臨時工員としてだった。朝8時から午後5時まで発電装置の回路盤を作った。ナイター設備のないグラウンドをそれから走った。
野球というスポーツへの愛情を横軸に据えて、監督に就任しても、その座標軸が全く揺らぐことはない。キャンプ初日に紅白戦を行ったことも、その延長線上にある。昨年までの実績をある種の権力として認めることをしない。ファームでくすぶっている選手のあきらめに似た感情をぬぐい去った。
ペナントレース終盤はストライキ騒動と重なった。落合監督は井端弘和選手会長を呼んだ。「選手会として、徹底的に戦って来い。優勝や日本シリーズがなくなってもかまわない。世の中には、それ以上に大切なことがある」。選手のプライドが、経営者側に押しつぶされるのが、落合には耐えられなかった。
オーナーとは、もちろん意見を異にする。それでも彼は選手を、ある種の権力から守ろうとした。他球団の監督にはまねができなかった。揺るがない座標軸。リーダーとして最も必要で、しかし、最も難しい役割を落合博満は、こなしきった。
スポニチ
4月2日、ナゴヤドーム。落合監督は広島との開幕戦のマウンドに川崎を送った。ヤクルトからFA移籍後、右肩痛で3年間1度も1軍登板のなかった右腕。つらい日々に耐えてきたのを指揮官は知っている。序盤に5失点で降板。それでも責めない。「内容は悪くないぞ」。そう声を掛けて交代を告げた直後から反撃が始まった。川崎を負け投手にするな、と。1点を負う6回2死三塁。ボテボテの二塁内野安打で同点とした井上に、指揮官はベンチで「何でもいいんだ、1点入れば」と握手を求めた。昨年不振にあえいだ井上は「そういうのに一番飢えていたから」と振り返った。信頼されるから応えたい。開幕戦は5点差を逆転して勝った。チームの方向性が1つへ向く。スタートはそこだった。
意見の押し付けになるような全体ミーティングを廃止。指揮官自ら選手に歩みより1対1で向き合った。「野球界の常識は非常識」。球界の流れに逆行し、型にはめない指導を徹底。長所を明確に示し、自分から行動を起こさせた。その上で選手の状態を隅々まで把握し、データ分析も入念に行った。5月には井端を1番から2番へ。荒木の長所を生かすための組み替えで打線は機能し、リーグ随一の投手陣も臨機応変に使い分けた。勝利の方程式は無用。パターンなどなかった。
「オレは何も欲しいものはない。だから困っている。でも、今は選手が毎日うまくなっていく姿を見ているのが楽しい。こいつらを勝たしてやりたいんだ」。そしていま一度、言った。「選手を褒めてやってください」 “オレ流”は中日を昇り竜へと変えた。その戦いはまだ続く。日本シリーズが待っている。
日刊スポーツ1:「怒り封印」と「ささやき」で人心掌握
うっすらと浮かべた笑みにこれほどの効果があったとは。今季、テレビカメラがとらえたベンチの落合監督は、いつも笑っているか無表情。喜怒哀楽で言えば「喜」「楽」はあっても「怒」「哀」の要素は皆無だった。一見、不自然にも映る。だが、その表情に象徴される「怒りの封印」こそが、絶妙の人心掌握となっていた。
守備力を買われ、7月20日からスタメンに抜てきされた英智が言う。「9割9分怒りたくなる場面で平常心なわけだから、それが無言のアピールになっているんですよ。選手は自然と次にどうしたらいいかを考えるわけです」。ミスをすれば人間の自然な反応として「怒られる」と身がすくむ。ところが叱責の言葉がない。ガマンしてくれているのだと気づき、期待に応えようと力がわく。
今季無失策の英智も致命的なミスを犯したことがある。7月31日ヤクルト戦(ナゴヤドーム)。1点リードの6回、2死満塁で佐藤真のレフトへの打球を落球。記録はヒットだったが、事実上の失策で逆転負け。だが、監督からのおとがめはなし。新聞を通じて「アイツが捕れないなら誰も捕れない」という言葉を知った。「あれを読んで自信になりましたよ」。
マウンドでの「ささやき」も効果は抜群だった。大半は森投手コーチではなく、監督自ら足を運んだ。その多くはピンチの場面ではなく、投手がひと息つくタイミング。最強リリーフ陣の一翼を担った岡本は言う。「気の抜けそうなところで来てくれるから、助かりましたね」。笑顔で励ますことはあっても、投手を追い込むような発言はしない。「(調子が良くないと)どうしたんだ、いつもみたいに跳びはねてないじゃないかと言われるんですよ」。この言葉が、ベストパフォーマンスを引き出す効果を持っていた。
5年ぶりの優勝は、選手を「大人」として扱い、自覚を促した結果。選手会長の井端は優勝決定後に言い切った。「ひと言で言えば、最高の監督ですね」。
日刊スポーツ2:奇抜采配の裏に確かな根拠
川崎の開幕投手をはじめ、落合監督は「常識」を覆す選手起用をたびたび見せた。9月7日巨人戦、同点で迎えた8回2死満塁。「右投手には左打者、左投手には右打者」が定番の代打起用で右腕中村に対し右の高橋光をぶつけた。しかも、代えた左の井上はその試合2安打していた。
「常識」ではあり得ないばかりか、井上のプライドも傷つけてしまう。高橋光には重圧がかかり、失敗したら責任を負い込む。結果はストレートの押し出し四球。これが決勝点となった。試合後、同監督は「うちでボール(球)を一番振らないのはミツ(高橋)だろう」と話した。
井上が振り返る。「あの時は正直びっくりした。でもひらめきのようでちゃんと根拠がある。だから文句が言えない。選手は不平不満があるものだけど、監督の采配には納得することが多かった」。セオリーを覆す采配には必ず根拠があった。だから、結果が良くても悪くても不満がたまることは少なかった。
高橋光のバットの芯には「高目!」と黒マジックでかいてある。低い球に手を出さないよう毎打席その文字を読む。「自分の持ち味を考えろと監督に言われた。低めの球を打ったら僕の長打力は発揮できない。やっと野球の基本が分かった気がする」。その工夫で四球を選ぶ確率はチームNO.1となった。落合監督はそれを知っていた。巨人中村の得意球は低めに沈むシュート。井上がヒットを打つより、高橋光が四球を選ぶ確率の方が高いと読んだのだ。
今季、試合前のミーティングでは野手に昨季までなかった資料が配られた。「個人対個人の配球データ」。それは球場別にも分けられた綿密なものだった。スコアラーに指示したのは落合監督。奇抜と思われる采配の裏には、確かな観察眼と細やかな分析があった。
日刊スポーツ3:身内重視も最後はファンと1つに
5度宙に舞った直後の優勝インタビュー。落合監督は貢献順を問われると「1番はオーナー。2番は女房。3番はスタッフ…」と声を張り上げた。就任以来、「私の仕事は選手がやりやすい環境を整えること」言いつづけた。その環境づくりを理解してくれたのが白井オーナーであり、信子夫人、そしてチームスタッフだったという。「ファン」という言葉が出なかったことに違和感を持った人がいたかも知れないが、それほど身内を重視した。
今年、一気にブレークした荒木は言う。「監督は僕たちが野球をやりやすい環境をつくってくれたんです。直接、いろいろと言ってもらいましたから」。選手たちは落合監督から「マスコミ対応に神経を使い過ぎるな」と通達されたという。中にはパフォーマンスやコミュニケーションが得意でない選手もいる。実は、今の中日ナインにはそのタイプが多い。野球に集中する環境がつくられ、同時に野球人として認めてくれる言葉が直接耳に届く。いつしか選手たちは、はつらつとプレーするようになっていった。ベテランも中堅も若手も「今年はやりやすかった」と口をそろえた。それは「個」を認め「個」を優先する、今の時代に即した選手操縦法でもあった。
もっとも、身内重視の方針は、ファンからすれば分かりづらいものだったかも知れない。今年、熱狂的といわれる土地柄ながら、ナゴヤドームへの客足は優勝が目前に迫った9月になってもなかなか伸びなかった。4万5000人の大入り満員は優勝を決めた10月1日を含め、97年ドーム開場以来、最少の9回にとどまった。昨年の阪神や今季の日本ハムのように、多くのファンを巻き込むスタイルとは対照的な優勝でもあった。それでも、白井オーナーは優勝に際し、語っている。「今年(の優勝)は監督の力です。見込んだ通り?そうですね」。
優勝目前の神宮で、そして優勝を決めたナゴヤドームで、落合コールが続く外野スタンドの前で、丁寧にお辞儀をする落合監督の姿があった。オレ流とファンが最後の最後に1つになった。
日刊スポーツ4:併殺打から見抜いた井端の復調
名古屋の若手記者はその発言に首をかしげた。「オレ流(落合監督)のコメントは難しいです」。5月11日、ヤクルトに延長10回の末3-4で敗れ、4年ぶりの最下位に沈んだときだった。試合後の落合監督はこう話した。「井端の併殺打が一番の収穫だな」。
照れ屋であまのじゃく。素顔を見せまいと、強がることも多い。が、このセリフは選手を見る目の確かさを表していた。状態がいいときのスイングを頭に入れどこが崩れているのか悪いのかをチェックする。「結果オーライ」は許さない。内容重視。評論家だった4年前の4月、巨人江藤が3ランしたときのことだ。古巣広島相手に移籍1号。マスコミが江藤に群がる中、落合監督は「甘い球を打っただけだ。評論しようがない。書けというなら書くが2、3行で終わるよ」と相手にしなかった。
井端に話を戻そう。併殺打は6回1死後、大西がチーム初安打したあとに飛び出した。岩村を襲う、いい当たりの三塁ゴロだった。井端本人は、監督発言をこう解釈した。「(バッティングが)いい内容だと言ってくれたんじゃないですかね」。落合監督の現役時代は、打席に入ると常にセンター返し、バックスクリーンを狙った。「どんな場面でも一緒。強い打球を打つ。併殺打になっても、無死満塁なら1点入るんだから」
井端の打率は2割3分6厘。不振にあえいでいた。落合監督にはこの併殺となったスイングが、復調の兆しに見えたのだろう。翌12日の井端は4打数4安打した。4年ぶりの最下位はたった1日で抜け出した。5月の井端は2割7分2厘と上昇カーブを描き始めた。結果を怖がることなくバットを振った。5月16日に1番荒木、2番井端のコンビが初めて組まれ相手守備陣を悩ませた。優勝を決めるまでこの打順のまま、2人の名前が変ることはなかった。
日刊スポーツ5:目標を掲げると見えてくるものがある
落合監督に「有言実行」キャッチフレーズがつき始めた。就任会見で「目指すものは1つ。日本一しかない」と言い、リーグ優勝した。コーチ経験もない新人監督が宣言通り勝ち進んでは、冷ややかだった周囲も認めざるを得ない。
オレ流は目標を掲げることからすべてが始まる。現役時代がそうだった。目標を聞かれると「3冠王を取る」と言い切った。すべて有言実行だったとはいえない。86年に3度目の3冠王となってからは、目標に届かなかった。それでも言い続けた。「最初に目標を掲げないといい仕事はできない。(公言すると)笑われたくないから一生懸命やるしかないだろ」。
評論家時代、初の首位打者取りに挑んだ小笠原(日本ハム)にこうアドバイスした。「(タイトルが)取れたらいいな、の気持ちでは絶対取れない。取るとなったら、やるべきことも見えてくる」。Aクラス入りを目標にした監督発言には「そんなのは目標じゃないだろ。ここの優勝はない」と断言した。
勝手な解釈だが、開幕戦の川崎起用は、右肩痛に苦しむ男に課したオレ流「目標設定」ではなかったか。3年間1軍登板なし。復活にかける川崎に最大の目標ができた。1月の指名だった。キャンプでは自分自身と闘って、目いっぱい調整していくしかない。汚名返上の場を与えてくれた監督のデビュー戦を汚すことはできない。
4月2日。川崎は2回持たずマウンドを降りた。オレ流の目標設定に応えられなかった。今月3日、現役
生活に別れを告げた。落合監督はファンにこうあいさつした。「川崎のひたむきな姿をみて、どれだけの選手が奮い立ったか。あの(開幕戦の)逆転勝利が優勝につながっていったと思う」。今季の目標を「規定投球回数クリア」とした川上がいう。「絶対にこのチームで日本一になりたい」。
落合監督の目標は、選手のものになった。
日刊スポーツ6:英智、川相の一芸生かす
優勝に向けラストスパートをかける時期に福留が戦列を離れた。9月1日の阪神戦で死球を受け、左手人さし指を骨折した。それでも落合監督に慌てるところはなかった。「(復帰は)来年の2月からになるな。あいつの野球生命を奪うつもりはない」と話した。
代役は英智だった。落合監督は「4番は福留が五輪で抜けたときからアレックスが打っていたし、打順を繰り上げればいい。守りはあいつ(英智)しかいないだろ」と説明した。福留はチーム一の23本塁打していた。これに代わる打者はいない。ならば、チームの持ち味である守りを優先させよう。本塁打こそゼロながら、守備力なら福留以上といわれる英智がいた。
落合監督は選手との初対面で持論の「一芸主義」を訴えた。「俗に言ういいものが1つあればいい。ほかは第3者が補ってくれる。そんなチーム構成になるでしょう。使えない選手はいません」。これが若手を刺激した。秋、春のキャンプを通じて12球団トップの練習量をこなし、出番を待っていた。「監督が使ってくれるからそれに応えたい。10割打つのは無理だけど、守りは頑張ればできますから」。 英智は自信を持ってプレーした。
バントのスペシャリスト川相もチームに貢献した。少ない出番ながら、3割をマークして犠打は6、2度サヨナラ打を放った。立浪がいう。「若手は途中出場の準備の仕方を教えてもらった。ギリギリの局面でバントを決める。あらゆる面で最高の選手です」。人手がないと知るや、ブルペンに走って捕手役も務めた。「できることはやらないとね。チームにはいろんな役目がいるんだ」。川相は当然のように言った。
就任前、落合監督は「昔は走り屋や代打専門の打者がいた。打つ、守る、走る、どこかに特徴のある選手をつくることがこのチーム(中日)の課題」とみていた。それを短期間でつくり上げ、巧みな起用で一気に優勝につなげた。 (以上6本の日刊スポーツの連載は、誰かが文字起こしして2chにアップしてくれたもの)
変身:中日・1年目の落合野球/目配りさい配
東京ドームを舞台に9月7日から始まった首位攻防戦。4・5ゲーム差で追う巨人には剣が峰の一戦と言えた。けがの清原を3カ月ぶりに出場登録させ、チームの士気を鼓舞した堀内監督。だが、抜群のさえを見せた落合さい配の前に野望は打ち砕かれた。
1戦目。中日は八回に追い付きなお2死満塁。落合監督は、井上の代打に高橋光を送った。マウンドは右腕の中村。左打者でこの日2安打の井上に、セオリーに反する右打者を起用したのだ。高橋光はしぶとく四球を選び、決勝点をもたらした。「ウチで一番ボール球を振らない打者はミツ(高橋光)だろ」と落合監督。中村の制球力と高橋光の選球眼をてんびんにかけたさい配が見事に的中した形だった。
1勝1敗の第3ラウンド。2点を追う五回、中日は1点を返し、なお一、三塁。落合監督は好投の先発・小笠原の代打にリナレスを送った。「キューバの至宝」は先発・工藤から逆転3ラン。200勝投手はマウンドにぼうぜんと立ち尽くした。六回にもやはり代打・井上が11号アーチ。中日は2本の代打本塁打で逆転勝ちした。ゲーム差は縮まるどころか逆に5・5差に広がり、巨人は息の根を止められた。
チーム本塁打がリーグ最少の中日。驚くべきことに、代打アーチは11本とリーグ最多を誇る。野球解説者の小早川毅彦氏は「選手の状況を見極めて、調子の良い選手から使っている。結果を出せれば選手の自信になり、それがうまく回転してきたのでは」と落合マジックを分析した。
選手の胸中を推し量った説得力のある言葉も見逃せない。8月14日のヤクルト戦で2点リードされた九回1死満塁。打席に向かう大西は落合監督に呼び止められ、「ホームランを狙ってみろ」と言われた。コンパクトなスイングが要求される場面だったが、肩の力が抜けた大西は中前打。チームは逆転勝ちした。大西は「あの一言で結果を気にせず、思い切り振ることができた」と振り返る。
ピンチの場面、マウンドに向かう落合監督はゆっくり歩き、歩くスピード、リズムは常に一定している。投手の乱れた呼吸を整える「間合い」を確保しているように見える。監督の言葉と行動がチームに精神安定剤のような効果をもたらしたとも言える。【仁瓶和弥】(毎日新聞 2004年10月7日 東京朝刊)
うーやんの手記(2chに誰かがアップ。出典知らない)
コーチになって初めての年に優勝できるなんて、俺ってツイてるなって思う。苦しかったけど選手がよくがんばってくれたよ。これに尽きるよ。本当にたくましくなった。頼もしくさえ感じるよ。
開幕から投手におんぶ抱っこって言う試合が多かった。試合中に頭が痛くなることが何度もあったりして、「俺はげちゃうんじゃないか」って思ったもん。コーチって打ってくれと願うしかないんだもんな。
1年間、選手のモチベーションを上げることだけ考えていた。1軍の選手に技術論なんて必要じゃないんだよ。2軍と違ってね。ただ、調子が悪くて、俺に助言を求めてきたときだけ、技術的な話はしたけど。俺が現役時代そうであった悪い時にように、あれが悪い、これが悪いといわれても、なかなかシーズン中には直せないもんなんだよ。
開幕前も開幕してからも阪神は強いと思ってた。投手も野手もメンバーがそろってるしな。力のある球を投げる投手が多いし。ただ甲子園で起きなかったミスが、ナゴヤドームでは起きた。そこにつけ込めたのが18勝10敗という数字に表れたんじゃないかな。
落合監督は現役時代に「オレが監督ならこうするな」といってたことをした。どの監督の真似もしてない。選手がプレーしやすい環境をつくってた。高代コーチ、森コーチがその支えになってた。俺も来年、その支えになる機会が増えるよう、今まで以上に頑張るよ。
川上憲伸手記(日刊スポーツ)
いても立ってもいられなかった。僕たちはベンチ裏のテレビで見てたんだけど本当にドキドキした。9回も、10回もチャンスの時には思わずベンチに入りたいくらいだった。胴上げの時は自分の手で監督に触れなかったんだけどやっぱりうれしかった。最高だよ。
今年は野球が面白くなった。マウンドに行く時、野球を始めたころのようにわくわくした。それは考え方が変わったから。僕は今まで自分のことで悩んでいた。今は自分のことより相手の心理状態を考えられる。例えば1点負けている時、リードしている投手の方が弱気になるもの。だから踏ん張れば勝てると思えた。勝負するのが楽しい、打たれても楽しいと思えた。
昨年はまったく光が見えなかった。右肩痛が治った理由はいまだにわからない。ただ1つ言えるのは1日24時間ほとんど肩のことを考えていた。朝6時に突然起きて肩を動かしてみた。寝ている時も肩のことを考えていた。気功、霊感などあらゆるものに挑戦した。きっかけが欲しかった。格好いい言い方をすれば、あきらめずに努力したことによって治させてくれたんじゃないかな。入団して6年は肩が痛くて満足いく体で投げてなかった。長い回を投げられるようになった今年は、自分がしっかりすれば勝ち星も増えると思っていた。
故障に対しても考え方が変わった。春季キャンプ初日の紅白戦で147キロが出たでしょう。以前の僕なら絶対に自信過剰になって次のクールで150キロ出そうとして壊れていた。だからあの時は、それ以上スピードを出さないと割り切った。スピードガンも気にしなかった。僕はびっくりするほど速い球を投げる投手じゃない。そういう考え方ができた時点で、故障から自分を守れたと思う。
落合監督には驚かされた。実は沖縄キャンプ中の2月6日。ホテルの部屋に監督が訪ねてきた。そこで言われた。「開幕投手はないぞ。やりたいか?」。僕は「去年ケガしてましたし、任せます」と答えた。それで開幕3戦目での先発が決まった。
監督はマウンドによく来る。あの言葉を聞くと一瞬で気持ちが晴れる。例えば1点リードの9回裏一、二塁の場面でマウンドに来たらこういう言い方をする。「二塁走者はかえしてもいいわけだよ。それで同点だ。つまりヒット2本までは大丈夫っていうことだな」。もし何かに後悔していたとしても、あの人は絶対に口にしない。失敗を恐れない空気をつくってくれた。
自分のベストゲームは5月15日の横浜戦(ナゴヤドーム)。本塁打を打って2−0で完封した。本塁打を打ったからじゃない。あの時は本当に自分の思い通りの投球ができた。僕が一番嫌いなのは逆球。思い通り投げられていないのに結果が出ちゃうのが一番腹が立つ。だからそれがなかったあの試合が印象にある。
周囲はMVPと言うけどそれは自分が決めることじゃない。それより大事なのは日本シリーズ。短期決戦なので相手投手の情報を多く引き出し、自分たちの情報を与えないようにしないと。今年の優勝は99年と違う。あの時は先輩投手に引っ張られていた。今だから言うけど今年は3連戦の初戦とか大事な試合に狙って先発させてもらった。実感が全然違う。絶対にこのチームで日本一になりたい。(中日ドラゴンズ投手)
落合中日がV!(日刊スポーツ)
「史上最強打線」の巨人や昨年の覇者・阪神には戦力で明らかに劣る。その差を埋め、逆転に導いたのが「オレ流」だった。「最後に上にいればいいの」。140試合をトータルで考えるから、目先の勝利にはこだわらない。根底にあるのは徹底した合理主義だ。故障情報などチーム内の情報をすべて遮断。時には「負け試合」もつくった。従来の「常識」と逆行する手法には、外部から批判の声も…。だが、信念は曲げなかった。すべてはこの瞬間を迎えるためだった。
キャンプ前日1月31日の全体ミーティング。落合監督は、選手を前に言った。「今までの中日のやり方とは違う方法を取ることもあると思うけど、信じてついてきてほしい。よろしく頼むぞ」。元三冠王が頭を下げる姿に、選手の間にあった不安や不信感は消えていった。ふた言目には「選手が主役なんだから」。投手交代の際には必ずマウンドに足を運び、試合のポイントでは自ら選手にアドバイスを送った。最悪のスト突入となっても、選手側に立った。選手を「その気」にさせることで、チームを1つにまとめ上げた。
「放任」とは違う。新戦力を発掘すべく、グラウンドでは選手を注視した。今春の沖縄キャンプ。朝10時から約9時間、観察したこともあった。V決定までに支配下登録選手70人中、57人を1軍登録。レギュラーは動かさず、一方で固定できなかった一塁と左翼は2軍からの昇格組を積極的に起用した。当然、チャンスを与えられた若手は目の色を変える。「選手はみんな必死になってやっているんだからな」。苦境の時、枝葉の部分の有効活用がチームに活力を与えた。
ひと:就任1年でリーグ優勝 中日監督の落合博満さん
秋田県出身。79年ロッテ入団。87年中日に移籍。巨人、日本ハムでもプレーし98年現役引退。野球評論家を経て昨年10月、中日監督に就任。50歳。
セレモニーが始まってもベンチに残ったまま。スタンドの「オチアイ」コールに促され、照れ笑いしながら歓喜の渦に。5回宙を舞った後の目は心なしかうるんでいた。「勝って優勝するのが一番格好良いんでしょうが、(負けての優勝も)私らしくて、いいんじゃないですか」
コーチに任せるのが通例の投手交代の場面でも「選手の労をねぎらうのは監督の役目」と必ずマウンドへ。入団8年目で芽が出なかった中堅選手に「レギュラーの椅子はゴロゴロ転がってるぞ」とハッパを掛け、やる気を引き出した。指揮官として「言葉の力」への強い信念がみなぎる。
昨年10月の就任以降、トレードと解雇の「凍結宣言」や1、2軍合同キャンプなどの改革を断行。シーズン中は試合前の慣例だったトスバッティングを禁じた。「投手の球は斜め前からは来ない」が理由。人一倍基本を大切にする姿勢は現役時代から変わらない。
敗戦を責任転嫁せず、負けても隠忍自重する姿は、時にはベンチの椅子をけり上げて怒りをあらわにした星野仙一元監督とは対照的だ。一方で試合後のテレビインタビューを拒否。負傷選手の情報に箝口令を敷き、「秘密主義」と批判されたことも。グラウンド外でも“オレ流”を貫いた。自らを「欲の塊」と呼ぶ。就任会見では半世紀ぶりの日本一を宣言。日本人としてはまれな「有言実行型」が、名監督への道を一歩踏み出した。(文・仁瓶和弥 毎日新聞 2004年10月2日 0時15分)
他チーム監督コメント(毎日新聞)
▽阪神・岡田監督 うちが中日を走らせてしまった部分もある。特にナゴヤドームで(2勝12敗と)分が悪く、5月に3連敗して勢いが止まった。ここぞという時に点を取られた。
▽阪神・星野仙一オーナー付シニア・ディレクター 脂の乗り切った選手と伸び盛りの若手が、うまくかみ合った結果だろう。安定した投手陣と鉄壁の守備による「守り勝つ野球」も見事だった。落合監督は選手の特徴をうまく見抜いた起用、さい配をした。あのルックスと(話し方の)イントネーションの勝利だね。
▽巨人・堀内監督 今年の中日は攻守ともに選手たちが適材適所の働きをしていた印象があります。特に投手陣は、うちの打線をもってしても大変苦しめられた。セリーグの代表チームとして日本一を目指して欲しい。
▽ヤクルト・若松監督 落合監督はいろんな選手を次から次へと使っていた。選手を信頼しているからどっしりと出来たんだろう。1年目で優勝とはたいした監督だと思う。本当におめでとうと言うしかない。
▽広島・山本監督 おめでとう。投手力と守りの差が出た。特にセンターライン。振り返ってみると、うちは開幕戦で5点差をひっくり返された。あの負けが尾を引いた。中日はあれで勢いに乗った。やっぱり開幕戦だなあ。
▽横浜・山下監督 中日は投手力と手堅い攻撃で、1点を重んじる野球が出来ていた。うちはギャラードや佐々木ら救援投手4人が故障などでいなくなり、公式戦の終盤まで持たなかった。
オレ記念館、入館料半額!!(サンスポ.COM)
中日の落合博満監督(50)が現役時代に自主トレを行っていた和歌山県太地町にある「落合博満野球記念館」は、ドラゴンズがセ・リーグ優勝を決めた翌日から3日間、入館料(大人2000円)の半額割引を実施するほか、Tシャツなどグッズ類を半額から3割引きで販売する。
立浪和義独占手記
『常識外れなことはしていない落合采配』(サンスポ.COM):胴上げをされたの? 初めて。引退が近いからこうなったのかな。感謝してます。ことしの優勝は誰か一人欠けても、できなかったんだから。
いまだから話せる。1年前、落合さんが監督に就任したとき。88年から一緒にプレーしていて、野球に対する情熱は分かってはいた。でも、最初は違和感があった。一、二軍合同のキャンプ初日の紅白戦。この歳になると、ひとつのケガが選手生命を左右する。はっきりと反論する必要があるとも思った。けれども、それは杞憂だった。「部屋に来てくれ」キャンプ前日の1月31日。監督の部屋に呼ばれたあの日を境に、見る目が変わった。話したのは20分くらい。それで監督の考えがはっきりと見えた。高いレベルのなかでこそ選手は成長するという合同キャンプのメリット、紅白戦の意図はもちろん、すべてが考え抜かれていた。そして、最後にこう言われた。
「ことし1年間、3番で頑張ってくれ」
昨年は4番を任されたが、3番は元々好きな打順。期待の大きさを知った。それがスタート。単純だけど、この人についていこうと思った。
2度の優勝が星野監督の下で3度目が落合監督。この2人は『動』と『静』だと思う。星野監督には野球の厳しさを教わった。だからこれだけ長い間、選手を続けられている。見られただけで気が引き締まることもあった。星野監督が選手を引っ張っていくタイプなら、落合監督は選手を乗せていくタイプ。ボクも8月はバテたけど、5、6月と月間MVPをとれた。それはあのひとことが大きかった。
「オレは心配していないよ。大丈夫だ」
4月を終えて打率・205。正直、スタメンから外されることも覚悟していた。そんなとき、こう言われた。プレッシャーにも感じたが、余計に奮起しようと思った。的確なアドバイスももらった。今思えば、35歳にもなる選手がうまく乗せてもらったことになる。
オレ流、オレ流といわれるけど、何も常識外れなことはしていない。キャンプの『白紙メニュー』だって、ベテランが練習を任されるのはよくあること。まあ、開幕投手の川崎には正直、ビックリしたけどね。あの人選も批判されるようなことじゃない。逆に、いけるかなと思ったほど。川崎の必死さは伝わってきた。結果はうまくはいかなかったけど、やってやろうという気になれた。球界再編問題で雑音の多い年だったけど優勝の味は格別。でも、まだ喜べない。やっぱり日本シリーズで勝たないと。2度の経験からいうと、やはりあの舞台で負けたらリーグ優勝がかすんでしまう。今度こそ勝ちたい。体調を万全にして迎えたい。もう1度、あの人を胴上げしたいんだ。
川相昌弘、目が真っ赤
(サンスポ.COM):試合後、祝勝会と恒例のビールかけがナゴヤドーム内で行われた。同球場の中で行われるのは初めて。およそ2000本のビールが、あっという間に泡となった。「1年前には、こんなことは想像できなかったです。うれしいですね…。落合監督に呼んでもらって、本当に感謝しています」。巨人を飛び出し、テスト入団したベテラン・川相も目が真っ赤。大騒ぎの中で感慨深げだった。
岩瀬仁紀、Vの味に酔いしれる
(サンスポ.COM):岩瀬は指揮官から手渡されたチャンピオンフラッグを両手で、しっかりと、受け止めた。「やっぱり(優勝は)いいですよね。形はどうあれ、このためにやってきたんですから」延長十回二死満塁で嶋を3球三振。ド派手なガッツポーズはVの象徴だった。「自分の中で、これだけの経験をした1年はないですから…。監督に見捨てられず、一軍にいてよかった」
守護神を託された今季は、3月前半に自宅の風呂場で転倒し、左足中指を骨折。しかし指揮官は二軍に落とさなかった。 「落とすのは簡単。お前は、これを乗り切らないといけない」
4月2日の広島との開幕戦(ナゴヤD)にセーブを挙げたが、その後は不調に泣いた。4月6日には待望の第1子、法樹くんが誕生。指揮官の言葉と息子の笑顔が励みだった。「胴上げ投手を狙ってました。日本シリーズでなれるよう頑張ります」 99年のリベンジ、ダイエーでもよし。パの強打者をねじ伏せ、今度こそマウンドで、その瞬間を迎えてみせる。
落合英二
「(今季の投手起用は)これまで自分が経験して培ってきた考え方が、根底から崩れた。中継ぎ、抑えの、いわゆる常識と言われている起用法ではなかった。勝つために何をしたらいいのかを徹底した結果だろう。
9回を抑える、というのは7,8回のピンチを防ぐのとはまったく違う重圧がかかる。よほどの覚悟が必要。(自分と岩瀬の)どっちが投げるのか分からないという状況はうまくいかない、と思った。岩瀬が打たれるとは思っていなかったし、今までなら岩瀬は、逆転されるまで代わらなかった。そこへ僕が出ていって成功。これがチームの勝利につながった」
森コーチ
「9回を1人の投手に任せられれば、何の問題もなかった。だけど、今年のうちの中継ぎ、抑えメンバーから考えると、同じ力量でそのうち1人と決めてしまうと、もう1人を生かし切れないという心配があった。相手打線との兼ね合い、イニングの進行状況を見ながら、一番いい方法をとった」(10月3日付 Dragons Hot-News Expressより)
10/03 sun./135/77勝55敗3分/対ヤク12勝15敗/ナゴヤドーム
さらば川崎憲次郎
ヤク 000000100 | 1 石堂,佐藤賢,鎌田,田中 − 小野,細見
中日 02240021X |11 川崎,山本昌,バルデス,高橋聡 − 柳沢,前田章
勝:山本昌 負:石堂
[中]古田/[遊]宮本/[三]岩村/[左]ラミレス/[一]鈴木/[二]土橋/[右]稲葉/[捕]小野/[投]石堂/[投]石堂
[二]荒木/[遊]井端/[三]立浪/[中]アレックス/[一]渡辺/[左]井上/[右]森/[捕]柳沢/[投]川崎
川崎の手記が載った週刊朝日が出て来ない。ヴァン・ダ・レイ・シウバが表紙のヤツ。見つかったら書き直すかも知れないけど、とりあえず。ファースト渡辺、サード立浪、レフト井上。他はきのうと同じスタメン。
まず俺竜が川崎(33)を呼んで来季の戦力外を告げたのが1日。恵子夫人(33)とも相談して、「肩は痛いの?」「痛い」「それならもういいんじゃない?」、引退決断は2日の夜。野村克也氏に連絡し「ここまで来られたのは監督にシュートを教えてもらったおかげです」と電話口で深々と頭を下げた(SANSPO.COM)。
それでこの日俺竜は球団と相談した上で、この試合を川崎の引退試合にすると決めた。若松勉を訪ね、先発させて一回だけ投げさせる、と告げる。若松も、右ふくらはぎ痛で走れない古田敦也を初回限定、「1番・センター」で起用。古田:「中日移籍の時から対戦を思い描いてたけど、こんなかたちで対戦したくはなかった。最後は思いきり振った。空振りするつもりはなかったけど、球が伸びて来た」「93年の日本シリーズで西武を倒した時、闘志をむき出しにしていた川崎に僕たちも乗せられて勝つことができた。ケガとの闘いで引退は不本意でしょう。残念。でも僕より年下の連中がやめるとなると気分はよくない。あのゴツイ顔を目に刻んでおきます」古田、宮本、岩村三者連続三振。試合中にもかかわらず両チームで涙の胴上げ。
(寺西雅広/中スポWEB)敵も味方もない。プロ野球人生最後の13球を投げ終えた男のもとへ、中日、ヤクルトベンチから、全選手が駆け寄る。1回、2回…。現チームメートとかつての仲間たちの手によって、宙に舞うこと5回。近づくナゴヤドームの天井が、川崎の目にぼやけて映った。 「この4年、何もしていないのに胴上げまで…。こんな舞台を用意してくれた監督、コーチ、球団、ファンに感謝しています。自分は本当に幸せ者でした」
落合監督が用意した1イニングの惜別マウンド。ヤクルトも最高の相手で出迎える。1番・古田。右ふくらはぎ痛をおして打席に立つ友へ、川崎も真っ向勝負を挑む。 「今まで一番、バッテリーを組んだ人。真剣勝負がしたかった」 カウント2−2からの6球目。決め球・シュートで空振り三振。最も投手・川崎を知る男を全力で仕留めると続く宮本、岩村も連続三振。全13球を投げ終えた時にはもう涙が止まらない。顔をくしゃくしゃにしてスタンドへ何度も頭を下げた。 「いつもファンが応援してくれた。でも、もう自分の球じゃ打者は抑えられない」
移籍初年度の2001年3月。近鉄とのオープン戦で右肩を痛めた。原因不明。治療のため全国を歩いた。整体、針、耳ツボ…。あらゆる治療を試したが、投げれば心臓がバクバクするほどの痛みが走る。右手でグラスすら持ち上げられない時期もあった。
今季4月2日の開幕戦。痛み止めの座薬と飲み薬を飲用して1274日ぶりの1軍マウンドへ。打たれた。限界が近いことは誰より自分が知っていた。
この日の午前、中日での4年間を過ごしたナゴヤ球場で選手、スタッフにあいさつ。佐藤2軍監督に「もう薬は必要ないな」と声をかけられ、笑って答えた。「はい。あと1回だけです」。その最後の1回を、万感の思いを込めて投げきった。 「何度も優勝したけど、今日が一番の思い出になる。悔いはないです」 試合後、ドームにわき起こった「川崎」コール。大歓声に応え、背番号20がマウンドに上り、ファンに再び頭を下げる。通算88勝。一時代を築いた右腕は、悩み、もがき、苦しみ抜いた4年を経て、最後の最後に再び輝いた。
「空振りするつもりはなかったけど、球が伸びて来た」というなら球の下を振ったハズだが、「決め球・シュートで空振り三振」というなら球の上を振ったハズで、真面目に考えるとこの話はオカシイと思うが、まあこの際そんなことはどうでもいいのであろう。
(橋本純己/ウェブ報知)涙があふれて止まらなかった。現役16年間を締めくくる引退登板。初回、ヤクルト打線を3者連続三振に仕留めると、川崎の顔はもうくしゃくしゃだった。古田、井端、両親と家族による花束贈呈の後、両軍ナインに胴上げされて5度、宙を舞った。「ありがたい。自分は本当に幸せ者です。トータルで考えれば、野球人生に悔いはない」スタンドからわき起こる「川崎コール」に、何度も深々と頭を下げた。
痛みと闘い続けた4年間だった。中日へFA移籍した直後の01年3月14日、近鉄とのオープン戦(大阪ドーム)で右肩痛を発症。「1球投げる度に、心臓がバクバクするぐらい痛かった。登板日はいつも痛み止めを飲んでいた」と川崎。4年総額7億5000万円の大型契約の最終年となった今季も、結局、復活はできなかった。
4年ぶりの1軍登板で開幕投手を務めた4月2日の広島戦で、1回1/3を5失点KO。同30日の横浜戦、1死も取れずに4失点KOされると、もう次の登板機会はなかった。「自分の球ではなくなった。あの球ではバッターを打ち取れない」2日、ナゴヤドームで落合監督から戦力外と告げられ、引退を決意した。
川崎はこの日の午前10時30分、ナゴヤ球場で2軍のナインに最後のあいさつをした。1人1人と握手をしながら「思い切り腕が振れるやつがうらやましい」と、思わず本音がこぼれた。
1月の神社参拝で、絵馬に書き込んだのはたった3文字「投げる」だった。この日はこん身の力を込めて最速139キロの直球を投げた。だが結局、自分本来の球は戻らなかった。巨人キラーとして一時代を築いた通算88勝右腕が、マウンドを去った。
若松監督:「何といってもシュートが印象的なピッチャー。痛みは本人しか分からないけど投げられなかったのは悔しかっただろう。これからの人生の方が長いんだし頑張ってもらいたい。
川崎:「プロとして見せる球がなくなった。これ以上格好悪いところを見せられない」「野球人生トータルして考えれば悔いはないけど、この4年間何もできなかった悔しさはある。人に恵まれ、自分は本当に幸せ者でした」「今後?野球以外に好きなものはないから分からない。でも、もう肩の心配をしなくていいんだよね」
オレ:「引退試合はきょう決めた。他のチームでやり直したい、現役にこだわりたい、と言うのなら考えるが、もう名古屋で終わりにしたいと申し出て来たから決めたんだ。ドームの最終戦にできたのはいいことだと思う」「川崎のひたむきな姿を見て今年の優勝があったようなもの。練習をすればグラウンドに立てるということを証明してチームに勇気を与えてくれた。大きな存在だった。あれだけのピッチャーだからいい形で送り出したかった。誰でもやってやれるわけじゃない。長いことありがとうと言いたい」
3日付のトーチュウに「川崎引退、きょうサヨナラ登板」の見出しで、「恵子夫人とも相談の上、ユニフォームを脱ぐことを決意。それを受け、指揮官は即座にサヨナラ登板を決定した」とあるので、実際には2日じゅうに、少なくとも「ほぼ決まってた」んだろう。
それで試合の方なんだけど、圧勝。二回、森章剛(左打席)2ラン、四回リナレス満塁HR。荒木3得点井端2得点。山本昌が二回から六回まで1安打5三振ゼロ封して13勝目。七回バルデス1失点、八、九回高橋聡ゼロ封。またしても「四連敗はしない」神話が継続した。ヤクルト初回の三連続三振はどのくらい本気だったのか。川崎相手に本気で勝負に徹してたら5点は取れた、とかってことはないんだろうか。初回に涙で三振してもらっておいてその後圧勝なんて、なんだか申し訳ない気分である。うちは順位確定してたけど、ヤクルトはまだ二位争いをしてたんだぞ(その後ヤクルトは10月16日の横浜戦に勝ち、0.5ゲーム差で巨人をかわして最終的に二位で終わった。よかったです)。
リナレス:「今年初めてナゴヤドームで本塁打を打てただけでもうれしいのに満塁本塁打。とてもうれしいよ」
森:「スライダーが来ると思って狙っていきました。ドンピシャな打撃ができましたね」俺:「(高橋聡は)森には相当怒られていたけど、当たり前だ。あれだけ球にバラつきがあったらな。でも故障前よりはいい球を投げてた。これで日本シリーズに間に合うだろう」
六回表、井端エラーしたみたい。勿体無い。
この試合で、今季の主催ゲームはすべて終わり。観客数は68試合で233万500人(1試合平均3万4272人)。昨季は70試合で233万6500人(1試合平均3万3378人)。SANSPO.COMによると「落合監督は『あれだけの投手だし、いい形で送り出したかった』としみじみ。試合後は選手らとグラウンドに整列して「ホームで44勝の成績はみなさんの声援のおかげ」とあいさつ。涙声になりながらファンに日本一を約束した」、だそうです。なんかほんとに涙もろいね。