IIIIIINDEX

01:明治のベースボール

1968-1912

preface/ どうやってこれを書いたか

2004年の球界再編騒動のおかげでちょっと興味をもって、プロ野球の歴史について調べました。せっかくなのでアップします。特に「日本プロ野球史探訪倶楽部」にはお世話になりました。少なくともこのページ(明治篇)と、次のページの「宝塚運動協会」の章までは、基本的には「日本プロ野球史探訪倶楽部」の要約に過ぎず、とりえがあるとすれば「短い」ことぐらいです。「日本プロ野球史探訪倶楽部」とその管理人の九時星さんに、特に感謝します。

スタイルシートでタブを作る方法に関しては、CSS Tabs | unraveledと、:: conque.jugem.jp ::に多くを学びました。感謝します。「スタイルシートでタブ」とかの検索語で来る人がいるといいなー、という思いもあって書いてみました。

part 01/1/arrival of baseball

ベースボール伝来

Wikipediaの「お雇い外国人」の項にこう書いてある。

「お雇い外国人とは幕末以降、明治初期に、日本の政府や各府県、民間において殖産興業のため欧米の技術や学問、制度の輸入のために、雇用した欧米人のことである。高給で待遇した事が知られる」「政府関係では1872年(明治5年)時点で214人であった。中でも外国人を最も多く雇用していたのは工部省で、1874年(明治7年)には鉄道関係を中心に290人を数えたという。大部分は任期を終えると帰国したが、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドルのように日本文化に引かれて滞在し続け、日本で生涯を終えた人物もいる」

ベースボールはアメリカからやって来たお雇い外国人たちが職場なり学校なりで教えた、という説が主流のようだが、「wind5」というサイトには

作家の佐山和夫によれば1890年、National Baseball League of Great Britain and Irelandなるプロ野球リーグがイングランドの4チームで結成され、その後イングランド北東部で人気を博したという。ただし、それ以上の人気を得ることはできなかった。
その後、再びイングランド北部で野球人気が盛り返し、1933年には、ナショナル・ベースボール・アソシエーションが結成され、やがて、ヨークシャーやランカシャーにも人気が広がり、日本職業野球連盟が結成された同じ年の1936年、ヨークシャー・リーグが結成され、プロ野球が復活する。ただし、この野球ブームも、1939年までで、第一次世界大戦の勃発でイギリスの野球ブームは水が差されたと言われる。

という記述がある。1890年にイギリスにプロリーグが発足したとすれば、明治初期にイギリス人が野球を伝えた、という可能性もあるのかも知れない。

「日本プロ野球史探訪倶楽部」(以下「球探」と略記)によると、この頃のベースボールは

当時のルールは、現在とはまだいくつかの大きな違いがありました。投手は下手からしか投げられず、しかも打者は自分の得意な高・中・低のどれかのコースを指定出来たのです。これが九球コースを外れると打者は一塁に歩きます。つまり四球ではなく九球。そしてグラブもミットもまだなかったのです。本場アメリカでもせいぜい革の手袋程度、根性で球を捕っていたのです。

というものらしい。格好は初期には「気の利いたところで襦袢下かシャツ1枚、ひどいのは暑い折は素裸体に六尺褌一本、朴歯の下駄という珍な姿の時もあれば、寒い折は羽織袴をつけて平気でいた時すらある(国民新聞社・日本野球史より)」とある。

西洋に留学した日本人エリートが帰国して広めた、という例もある。さらに「球探」から引用。

明治政府によって欧米に留学し、後に帰国して野球を伝えた人もいる。それが平岡煕(ひろし)である。明治4年、16歳で渡米し、現地で見た汽車と野球に夢中になってしまった彼は、帰国して新しい『交通』である機関車製造の技術を生かすために明治11年新橋鉄道局に就任し、そこの鉄道技師などで日本初の本格的野球チーム『新橋アスレチック倶楽部』を結成する。ユニフォームを作ったのもこのチームが初めてであり、平岡煕は日本で初めて『カーブ』を投げた人物でもある。ほぼ同時に平岡が英語教師をする三田の徳川達孝伯爵が『徳川ヘラクレス』という野球チームを作る。ここのユニフォームは真っ赤なものとグリーンのものが作られ、いざ試合となると赤組青組に分かれ鮮やかであったという。初期の日本の野球はこの両倶楽部がリードした。

やがて工部大学、駒場農学校(ともに後の東大)東京英和学院(後の青山学院)、波羅大学(後の明治学院)、立教などにチームが組織されると主役は学生チームとなっていく。工部大学はやがて東京法科大学の予備門と合併して第一高等中学校(一高)と称するようになる。

一高というのが今後もたびたび登場するけど、東大の教養過程のことだ。多少違うかも知れないけど、たぶん大体合ってる。さらに大雑把に言えば東大のことだ。Wikipediaによると、

1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校普通科が合併し、東京大学予備門設立。
1886(明治19)年、工科大学予科を併合し、第一高等中学校となる。
1889(明治22)年、一ツ橋から本郷弥生町(現在の東大農学部のある区域)に移転。
1894(明治27)年、高等学校令により第一高等学校になる。修学期間は3年、帝国大学の予科と位置づけられた。
1935(昭和10)年、駒場に移転。

とのこと。

1853(嘉永06)年、黒船来航
1854(安政01)年、江戸湾にペリー再来、日米和親条約
1855(安政02)年、安政の大地震
1858(安政05)年、福澤諭吉が蘭学塾開校
1859(安政06)年、吉田松陰没
1860(万延01)年、桜田門外の変
1861(文久01)年、アメリカで南北戦争開戦、65年まで
1867(慶応03)年、大政奉還/坂本龍馬暗殺
1868(明治01)年、会津戦争/戊辰戦争 / 蘭学塾は慶應義塾と改称
1871(明治04)年、いわゆる断髪令。「散髪制服略服脱刀共可為勝手事 但 禮服ノ節ハ帯刀可致事」
1872(明治05)年、新橋・横浜間に鉄道開業
1876(明治09)年、廃刀令
1877(明治10)年、西南戦争
1889(明治22)年、大日本帝国憲法発布。翌年、教育勅語発布

part 01/2/shiki masaoka

まり投げて 見たき広場や 春の草

「ベースボールを野球と訳したのは正岡子規」という説があるけど、微妙に正しくない。フジテレビ「トリビアの泉」2005年9月28日放送ぶんの「ガセリア」コーナーでも「ベースボールを野球と訳したのは正岡子規・というのはガセ」というのが流れたので、それ以前よりは有名な話かもしれない。

正岡子規(まさおか・しき)。慶応3年9月17日(1867年10月14日)生- 明治35(1902)年9月19日)没。伊予松山(現、愛媛県松山市)出身。この人がそもそも何で有名なのか、じつは私は知らなかった。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」だ。あ、あれが子規なのか。「近代写生句の創始者」だそうだ。「写生句」と言われてみるとたしかにそんな感じがする。本名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。子規はベースボールが大好きで、熱心なプレーヤーでもあった。ポジションはキャッチャー。『まり投げて見たき広場や春の草』という、なかなか素敵な句もある。日本最初の「野球好きな有名人」と言えよう。文学を通じて野球の普及に貢献したとして、没後100年にあたる2002年、野球殿堂入りを果たした。野球殿堂とは何か、じつは私は知らないが。

子規は1890(明治23)年3月、というと満22歳か、大谷是空に宛てた書簡の文末に「野球拝」と署名している(と、「球探」の掲示板で「野球記録研究所」の牧さんに教えていただいた)。この「野球」は幼名「升(のぼる)」をベースボールにひっかけた雅号で、「ヤキュウ」ではなく「ノボール」と読む。マサオカ・ノボルからの手紙に「野球拝」と署名があるので、相手は「ああ、ノボールか」と合点するのである。そういう言葉遊びが好きな人だったらしい。松岡正剛によると、子規の句には「きらきら」とか「くるりくるりと」とか「すたすた」とか「ひやひやと」とか「ほろほろと」とかの擬態語が多く出てくる。

子規は35年しか生きてないのだが、「球探」の九時星さんによると子規が生涯に用いた雅号の数は90とか100とかあるそうで、「野球(のぼーる)」はそのうちのひとつに過ぎない。他に例えば「能球(ノボール)」「野暮流(ノボル)」とか名乗った(署名した)ことがある。雅号じゃないにしても「弄球家(ベースボールマン)」と名乗ったこともある。その後1896(明治29)年に新聞に連載した随筆『松羅玉液』の中で「ベースボールいまだかつて訳語あらず」と書いており、したがって「野球(のぼーる)」にベースボールの訳語という意識がなかったことは間違いない。

Wikipediaの「野球」の項目にはこうある。

ベース・ボールを、初めて野球と日本語に訳したのは、第一高等中学校(1894年、第一高等学校に改称。現在の東京大学)の野球部員であった中馬庚(ちゅうまん・かなえ)である。1894年、彼らが卒業するにあたって部史を刊行することになり、中馬の書いた文章中に「野球」が初めて登場するのである。

「球探」に『日本野球創世記』(君島一郎著・ベースボールマガジン刊)という本の引用がある。『われら野球人』からの孫引きだと書いてあるから、以下は曾孫引きということになる。

明治27年の秋、ある晩のこと、青井が寄宿舎の片隅で彼の得意のバット「千本素振り」をやっていると、中馬庚が息をはずませてやってきて「青井。よい訳を見つけたぞ。Ball in the field ― 野球はどうだ」

明治27年というと日清戦争の始まった年だ。中馬庚が子規と面識があったかどうか知らないが、『松羅玉液』の連載はこれより後のことなんだから、少なくとも親交はなかったと思われる。

そういうわけで「ベースボールを野球と訳したのは正岡子規」というのは「微妙に正しくない」んだが、まあ、しかしねえ。かといってトリビアみたく、「ガセ」と呼ぶのもどうかと思う。「ある意味ではそう言えなくもない面が、見方によってはあるかも」くらいのユルイ理解でいいんじゃないか。とにかく「野球」という文字列の、確認された最古の例は子規によるものであり、しかもそれは「ベースボールを好きな自分」というほどの意味合いなんだから。ちなみに子規の言う「ベースボールいまだかつて訳語あらず」というのも、強いて言うならば微妙に正しくない。小学館『日本国語大辞典』第二版によると、中馬庚の「野球」以前にも、「球遊び」「打球鬼ごっこ」「底球」などの訳語が存在したらしい。正確には「いまだしっくり来る訳語あらず」ということになる。

「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」なんかは子規が発明した日本語らしい。「松山市観光案内」にそう書いてある。

それにしても明治の頃からすでに「千本素振り」なんてやってたのか、と驚かされるが、この時代はついこの前まで普通にサムライが町を歩いていたわけだから、明治と千本素振りは、むしろ、よく似合う。驚く私がバカなのだった。もちろん「素振り」は子規が発明した語ではなく、古くからある剣術の言葉だ。落合博満も素振り信者として有名だが、ボビー・バレンタインはあんなものは練習のための練習だと言って、ロッテでは夜間練習での素振りを禁止した。どっちが正しいというものではないと思うが、やはり「細長い棒を裂帛の気合で振る」のが日本人好みのサムライ街道なんだろうか、と思わずにいられない。「千本素振り」が「得意の」と形容されるところなんか、たしかに「練習のための練習」という面を感じさせる。日本でのゴルフ人気もサムライと関係あるのではないか。

佐野真一は『巨怪伝』で、愉しみを否定し修身と鍛練ばかり強調しがちな日本野球独特の気風について、「そのそもそもの原因は、正力(松太郎)のあまりにも強烈な個性」にあった、と書いている。しかし明治27年に「得意の千本素振り」なんかやってるんだから、佐野説はかなり疑わしい。そもそもベースボール以前の日本にはベースボールがなかっただけでなく、「スポーツ」という概念が存在しなかった。「球探」には「弓や鉄砲と同じで、ボールをぶつける事や的を外さぬ事が時には主眼であるといわれ、まさに西洋の武芸十八番だと思われていた」とある。すべての原因は正力、というのはいくらなんでも買い被り過ぎだろう。

子規はいろいろ熱心にベースボールを論じたりもしてもいる。「正投の他、アウトカーヴ、インカーヴ、ドロップ等種々あり。けだし打者の眼を欺き悪球を打たしめんとするにあり」とか、「走者三人ある時はこれを満基(フルベース)という。(中略)これ最も危険なる最も愉快なる場合にしてこの時の打者の一撃は実に勝負にも関すべく打者もし好球を撃たば二人の廻了(ホームイン)を生ずることあり、もし悪球を撃たば三人ことごとく立尽(スタンジング)(あるいは立往生という)に終ることさえあるなり。とにかく走者多き時は人は右に走り左に走り球は前に飛び後に飛び局面忽然変化して観者をしてその要を得ざらしむることあり。球戯(ベースボール)を観る者は球を観るべし」とか、「競漕競馬競争のごときはその方法甚だ簡単にして勝敗は遅速の二に過ぎず。故に傍観者に興少し。球戯はその方法複雑にして変化多きをもって傍観者にも面白く感ぜらる。かつ所作の活撥にして生気あるはこの遊戯の特色なり、観者をして覚えず喝采せしむる事多し」「愉快とよばしむる者ただ一ッあり ベース、ボールなり」とか。「ホームイン」を「廻了」と訳したのは、定着しなかったようだ。

さらに子規は「日本最初の長篇野球小説」も書いている。タイトルは『山吹の一枝』。打った球が偶然通りかかった女学生に当たる、というマンガのようななりゆきで、医学生、紀尾井三郎と女学生まち子は出会い、ほのかに惹かれ合う。ところがある日突然の火事で紀尾井は居場所を失い、偶然、芸者の家に厄介になることに。芸者の名は小松。このままでは学業は身につかなくなるしどうしよう、というところで終わる、未刊の長篇。長篇と言っても81枚。81枚と言っても原稿用紙ではない。和紙に毛筆で書いた81枚が、昭和24年に偶然発見されたらしい。

あらすじだけ見ると『ヤングサンデー』に載ってても違和感ないような話だが、これをもって「健康な若い男女の日常は当時も今も変わらない」と考えるのはちょっと違う。第一、女の学生というのは当時ほとんどいないので、ここに描かれる三郎とまち子みたいな学生同士の男女の恋というのは、あったとしてもかなりのレア・ケースだろう。

じゃあ男子学生の燃えさかるパッションは一般にどこへ向かうのかというと、軟派を自認する者は遊廓へ行き、一報硬派は女なんぞ追っかけず、下級生の美少年を襲って抱くのが普通だった、んだそうだ。何故なら女は男を堕落させるが、少年との恋はそうではないからだ。男色は明治期まではけっこうふつうのことだったらしい。森鴎外『ヰタ・セクスアリス』から一部引用。BOOK OFFで200円で買ったんだけど、後で考えたら「青空文庫」でタダで読めるんだった。

 同じ年(数えで11か12歳の時)の十月頃、僕は本郷壱岐坂にあった、独逸語を教える市立学校にはいった。

(中略)

 学校には寄宿舎がある。ここで始て男色ということを聞いた。(中略)少年という詞(ことば)が、男色の受身という意味に用いられているのも、僕の為めには新知識であった。僕に帰り掛に寄って行けと云った男も、僕を少年視していたのである。二三度寄るまでは、馳走をしてくれて、親切らしい話をしていた。(中略)その親切は初から少し粘り気があるように感じて、嫌であったが、年長者に礼を欠いてはならないと思うので、忍んで交際していたのである。そのうちに手を握る。頬摩(ほおずり)をする。うるさくてたまらない。僕にはUrning(男色者 [ドイツ語])たる素質はない。もう帰り掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねばならないようにさせられる。ある日寄って見ると床(とこ)が取ってあった。その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸(ちょっと)だからこの中に這入って一しょに寝給え」
「僕は嫌だ」
「そんなことを云うものじゃない。さあ」
僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の厭悪と恐怖とは高まって来る。
「嫌だ。僕は帰る」
 こんな押問答をしているうちに、隣の部屋から声を掛ける男がある。
「だめか」
「そんなら応援して遣る」
 隣室から廊下に飛び出す。僕のいた部屋の破障子をがらりと開けて跳り込む。この男は粗暴な奴で、僕は初から交際しなかったのである。この男は少なくも見かけの通(とおり)の奴で、僕を釣った男は偽善者であった。
「長者の言うことを聴かなけりゃあ、布団蒸にして懲して遣れ」
 手は詞と共に動いた。僕は布団を頭から被せられた。一しょう懸命になって、跳ね返そうとする。上から押さえる。どたばたするので、書生が二三人覗きに来た。「よせよせ」などという声がする。上から押える手が弛む。僕はようよう跳ね起きて逃げ出した。

(中略)

 僕はお父様に寄宿舎のことを話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。
「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんといかん」
 こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも嘗めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。

この本はタイトルだけはひじょうに有名だが、こんなことが書いてあるとは知らんかった。まるで『残酷な神が支配する』の、イアンとジェルミのようではないか。坪内逍遥『当世書生気質』では、硬派を自認する学生が恋を論じ合うシーンがある。

「最も人をして文弱にならしむるもんは、かの女色といふ奴じゃわい。(中略)」
「そこで君は龍陽主義を主張するじゃな」
「女色に溺るるよりは龍陽に溺るるほうがまだえいワイ。第一互いに智力を交換することもできるしなア。且は将来の予望を語りあうて。大志(アンビション)を養成するといふ利益もあるから」

龍陽というのは魏王と男色関係にあった寵臣の名に由来し男色を意味する、んだそうだ。そうですか。

Googleで「子規 野球 ベースボール」とかで探すと、他にもいろんな情報がみつかる。次は1898(明治31)年、子規の作。上は「野球観戦は楽しいなー」、下は「あー満塁だ、ドキドキするー」という歌。

   『久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも』
   『今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな』

part 01/3/wagahai ha neko dearu

こんにちもっとも流行する遊技

野球は『我輩は猫である』にも登場する。夏目漱石は正岡子規と同じ1867年生まれで、親友で、一高の同級生でもある。以下は青空文庫より引用。私立中学落雲館の生徒たちがクシャミ先生を攻撃して来る、というくだり。たぶん1906(明治39)年か1907年の文章。ちなみに1904-05が日露戦争、1914-1918が第一次世界大戦。

落雲館に群がる敵軍(nobio註:落雲館のガキども)は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分の休暇、もしくは放課後に至ってさかんに北側の空地に向って砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールと称なえて、擂粉木の大きな奴をもって任意これを敵中に発射する仕掛である。(中略)

ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、決して戦闘準備ではないそうだ。吾輩はベースボールの何物たるを解せぬ文盲漢である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、こんにち中学程度以上の学校に行わるる運動のうちでもっとも流行するものだそうだ。(中略)吾輩の眼をもって観察したところでは、彼等はこの運動術を利用して砲火の功を収めんと企てつつあるとしか思われない。(中略)

これからダムダム弾を発射する方法を紹介する。直線にしかれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右の手に握って擂粉木の所有者に抛りつける。ダムダム弾は(中略)堅い丸い石の団子のようなものを御鄭寧に皮でくるんで縫い合せたものである。(中略)向うに立った一人が例の擂粉木をやっと振り上げて、これを敲き返す。たまには敲き損なった弾丸が流れてしまう事もあるが、大概はポカンと大きな音を立てて弾ね返る。その勢は非常に猛烈なものである。神経性胃弱なる主人の頭を潰すくらいは容易に出来る。(中略)

今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準誤たず、四つ目垣を通り越して桐の下葉を振い落して、第二の城壁即ち竹垣(nobio註: 苦沙弥先生んちの竹垣)に命中した。随分大きな音である。ニュートンの運動律第一に曰く、もし他の力を加うるにあらざれば、ひとたび動き出したる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。(中略)第二則に曰く、運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向において起るものとす。これは何の事だか少しくわかり兼ねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、障子を裂き破って主人の頭を破壊しなかったところをもって見ると、ニュートンのおかげに相違ない。

part 01/4/waseda-keio

一高時代

この章は「球探」よりマルッと転載。

さて明治20年ごろに強チームとされていたのは農学校、波羅、東京英和、慶応など数校の選手からなる『溜池倶楽部』、波羅大学の『白金倶楽部』、『駒場農学校』などであるが、明治23年4月、『白金』対『駒場』の対戦で破れた白金は態勢を整えるべく、まずは第一高等中学校に対戦を申し入れ同年5月2日、一高向ヶ丘グラウンドで試合が行われた。一高は柔道部の猛者連などの応援団が見守る中、6回を終えて0-6と劣勢にたたされていった。その時、遅れたために塀を乗り越えてグラウンドに入ってきた波羅大学神学教師のインブリー氏を見つけた一高猛者連が彼を取り囲み暴行を加えるという暴挙に出たのである。これはあわや外交問題に発展しかねないほどの大事件であった。これが『インブリー事件』である。

この事件の背景には、同年3月から一高が全寮制となっていたことが一つの要因である。彼らにとってはその塀は世間から切り離し、将来国家を担う責任を与えられた場所を示すものである。この頃になると国家主義的傾向が強くなっており、彼らのエリート意識と相まってバンカラ校風も強くなっていたのである。対する波羅大学はアメリカ人私塾から発したキリスト教系の学校でその校風もハイカラと一高とは対照的であった。自らの正反対とも思えるチームに苦戦を強いられ、エリートとしての存在価値を示す『塀』を外国人にやすやすと乗り越えられたという強烈な屈辱感がこのような事件に結びついたのであろう。このバンカラ官学対ハイカラ私学の対照は関西においても三高(後の京大)対同志社で同じように現れている。

この事件は一高の野球を『校技』に位置付け、全寮あげて名誉挽回のために従来の弄球快戯的なものを捨て、悲壮な覚悟を持って猛練習に励んだ。彼らのエリート意識は寮生にあてた檄文で『第一高等中学が全てのものに優位にたたねばならぬ』と論じるほどであった。つまりこの事件こそが精神野球の始まるきっかけとなったのである。明治23年11月にはついに白金を破り、更に12月には溜池にも大勝し、翌年、白金・溜池連合軍を破ると一高精神野球は国内に敵なしという状態になった。

日清戦争(明治27.7.25〜28.2.2)戦勝の余韻覚めやらぬ明治29年5月23日、横浜外人アマチュア倶楽部と日米試合を行い、これを破ると6月5日に再戦し勝利、6月27日の米国東洋艦隊デトロイト号の乗員との試合にも勝利と外人チームに三連勝し、7月4日のオリンピア号乗員チームには敗れたが、これらの試合は新しい『情報』である日本の諸新聞が報道し全国に野球熱を広げたのである。そして、この一高野球が中学に指導され、その影響を受けた選手が進学してまた一高野球を広めるという具合に、一高精神野球は日本の野球の主流となっていくのである。

part 01/5/waseda-keio

早慶時代

以下(慶應)とあるのは、慶應義塾のホームページより引用。

1890(明治23)年、慶應に大学部が発足。
1894(明治27)年、日清戦争。
1898(明治31)年、慶應は幼稚舎6年-普通科5年-大学科5年の体制へ。
1901(明治34)年、東京専門学校が大学部と専門部を設置、早稲田大学と改称、野球部発足
1902(明治35)年、日英同盟締結
1903(明治36)年、初の早慶の対戦

「義塾の野球は、明治17年ごろアメリカ人のストーマー氏に初めて指導を受けて塾生の間に広まり、21年、三田べースボール倶楽部が組織されたのが第一歩。次第に実力を蓄え、ともに台頭してきた早稲田大学野球部の申し出に応じ、明治36年、初の慶早戦が実現した。以後両校は毎年対戦し、慶早戦の世評はますます高まっていった(慶應)」

1904(明治37)年、日露戦争開始。
この年、早稲田と慶應は相次いで一高に勝利し、一高最強時代から早慶最強時代に。

1905(明治38)年、日本の野球チームとして初めて、早稲田野球部が渡米。この時、日露戦争のせいでアメリカでは日本ブームだったそうで、人々は早稲田がランナーを出すと「『モスコーまで行け!』『セントピータスブルグへ進め!』ファインプレーをすると『東郷!』と歓声をあげたという(球探)」。この年四月、阪神電気鉄道開業。五月、日本海海戦。九月、日露戦争終結、ポーツマス条約。

1906(明治39)年「雪辱を期す一高が5月12日に早稲田、同月20日に慶応に挑戦したがあえなく連敗。ここに両校とも敵は早稲田、敵は慶応と秋の3回戦に向けて猛練習に励み、世間ではまさに日本一決定戦を待つかのごとく早慶戦への興味が膨らんでいく。まさに野球は知らなくても早慶戦は知っているという人気ぶりであった(球探)」

その早慶戦は1906年の秋に行われたが、「1勝1敗の後の3回戦前、両校の応援団の熱狂が極に達し、危険な状態になっていた。両校は協議の末やむなく試合を中止。その後、両校の対戦は20年間にわたり中断されてしまった(慶應)」。試合後に応援団が暴走することは野球でもサッカーでもたまにあるけど、試合前に熱くなって試合が中止、というのはなんだか凄い。20年間の中断というのもまた凄い。九時星さんがその年の11/14の東京朝日新聞を引用されている。

同校(早稲田)の安部部長は之を不穏なりとし、慶応方へ当日は双方とも一切応援団を出さヾるやうにと申し込みたるに、慶応方にては応援隊として双方二百五十名を限り出すことにしては如何との返答あり。されど早稲田学生連はさる制限は無用なりと主張し、既に爆裂団、霹靂団、猛烈団など云へる三個の応援隊を組織して用意をさをさ怠りなき模様なりければ、ベース審判の三島氏は斯る不穏の審判は御免を蒙りたしと之を辞したり。此に於て止むを得ず双方協議の上遂に無期延期と決したる次第なり

爆裂団、霹靂団、猛烈団。真ん中のヤツ読めますか。私は読めませんでした。「晴天の霹靂」のヘキレキです。早稲田にも慶應にも双方脅迫状が届き、応援団の場所の割り当ても交渉決裂、審判を引き受けた学習院にも脅迫電話がかかり(ちなみに東京と横浜で電話サービスが始まったのは1890年)、地元親分衆まで熱くなる、前日には野宿して決戦の応援に備える学生が数千人、と「球探」にある。

part 01/6/etc.

etc.

1907(明40)年、ハワイ・セントルイスチーム来日。慶応対セントルイス戦(三田・綱町グラウンド)は日本初の有料興行となった。翌年、慶応はハワイ遠征。早稲田はシアトル・ワシントン大学を招聘。11月、『リーチ・オール・アメリカン』来日。初のプロ野球チームの来日となる。約2週間の滞在で東京12試合、横浜2試合、神戸3試合と17戦をこなし、つまり1日1試合以上のペースってことか、圧倒的に全勝した。

1909(明治42)年4月、「社団法人日本運動倶楽部」というのが東京・羽田に、羽田野球場を開場。「BALL PARK」の「日本野球場史」で読みました。当時の雑誌は「郊外運動場の建設は日本帝国の面目なり、活力の泉源地なり、塵烟繁鎖の巷にありて激務に奔走するもの、時に郊外の大気に触れ、あらゆる文明の設備の下に興趣ある清遊を逞うせば、頭脳を一新し、精力を培養し、層倍の活気を以て再び黄塵万丈の中に突進するを得ん」と、まことに勇ましい名調子で称えた。しかしこの文章、よく読むと別に国威発揚を語ってるわけじゃなく、「できるオトコは週末にはスポーツでリフレッシュ」というような内容なのだった。当時の感覚では羽田は「郊外」だったようだ。羽田野球場はけっこう賑わったが、1916(大正5)年、大洪水で流失してそれっきりになったという。

1904(明治37)年、日露戦争開戦
1905(明治38)年、同、終戦。ポーツマス条約。日本は朝鮮満州地域を確保
1909(明治42)年、朝鮮総督伊藤博文、ハルビンにて暗殺さる
1910(明治43)年、韓国併合

この頃には旧制高校(など)の主催する中等学校野球大会が、近畿、北陸、九州、中国、東海など各地で盛んに。もうじき甲子園の全国高校野球選手権大会(の原形)も始まる。1912(明治45)年7月、明治天皇崩御。そういうわけで、1912年は明治45年なんだが、大正元年ともなった。以下次章。