IIIIIINDEX

02:大正プロ野球の光芒

1912-1926

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「日本野球史上初のプロチーム」とは

西暦2005年現在、読売ジャイアンツ公式サイトの年表には、「1934(昭和9)年6月6日、三原修が職業野球第1号の契約選手となる」とある。日本野球機構オフィシャルサイトにも「1934年(昭和9年)は、三原脩氏がプロ野球選手第1号の契約選手となり、 11月の日米野球大会にはベーブ・ルースが来日、沢村栄治投手の好投(静岡)などで、 職業野球チーム設立の気運が高まり『大日本東京倶楽部』が12月26日に設立され、 日本プロ野球の歴史がはじまりました」と書いてある。

実際には大正時代にすでに、日本運動協会(芝浦運動協会)、天勝野球団、宝塚運動協会といったプロ野球チームの歴史が存在し、決して大日本東京野球倶楽部がはじまりではない。だから、「正力松太郎を日本プロ野球の父と呼ぶのは間違っている」と、いう意見も世間にはあるらしい。

ただ、とにかく「その後の日本野球機構に直接連なる系譜の中では第1号」なのは事実だ。父とか母とか呼ばれるには、直系の祖先を残すことが必要条件じゃなかろうか。芝浦協会とか天勝野球団とか、数年で解散したものを父と呼ぶことには違和感がある。大日本東京倶楽部設立当時、一般に「職業野球団は震災前にもあったけど、あれは結局うまくいかんかったねー」というような認識があったようだ。たとえば中外商業という新聞は、同倶楽部誕生をこう伝えた。

「同チームがかくのごとく確固たる基礎を得るに至ったに就いては、大隈信常候を社長に球界の先輩市岡忠男、三宅大輔、浅沼誉夫三氏の人力に負う所大で、更に米国職業野球団の一員として来朝したニューヨーク・ジャイアンツの名打者フランク・オルドゥル選手の奔走によった結果で、先に失敗した日本運動協会の職業野球団の失敗に鑑み、対戦チームを米国に求め得た点において、その将来の発展性に多大の期待がかけられている」(1934/12/27 中外商業)

「先に失敗した日本運動協会の職業野球団の失敗に鑑み」。つまり、かつて日本プロ野球の歴史を【始めようとした】試みがあったが、【失敗した】と。

だから誰かが正力松太郎を「日本プロ野球の父」と呼ぶとしても、個人的にはべつに文句はない。ないが、だからと言って大日本東京野球倶楽部は「日本野球史上初のプロチーム」ではないし、三原脩は「日本野球史上初のプロ選手」ではない。正力松太郎はある意味で日本プロ野球の父と言えるだろうが、少なくともパイオニアではない。というわけでこの章では、その【失敗したプロ野球】というか、パイオニアの歴史を。

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日本運動協会(芝浦協会)

1912(大正01)年、タイタニック号沈没。
1914(大正3)-1918(大正7)年、第一次世界大戦。
1915(大正4)年、第1回全国中等学校優勝野球大会(現、夏の甲子園大会)開催。
1917(大正06)年、愛媛・今治高等女学校に野球部が創設される。以後、女子野球に関する記述は基本的に日本女子野球協会で学びました。

1920(大正09)年、秋と書いてある文献と12月とある文献があるが、とにかくこの年、日本初のプロ野球チームとして「合資会社日本運動協会」が設立される。

テレビもカラオケも暴走族もない当時の野球人気は大変なもので、鉄道会社も商店も学校も劇団も芸能人も野球チームを持っていた。プロ野球チームの登場は時間の問題だった、のだろうか。それと、野球人気過熱の反動で、ちょっとアレってどうなのよ、という学生野球批判が高まっていたということがあるらしい。

この頃になると選手はスター扱い、新聞には大きく扱われ中学からはコーチに呼ばれ、野球が続けたいばかりに留年を繰り返し新任教授より年上というものまで現れ、野球熱は異常な過熱を迎えていた。地方でも野球大会が盛んに行われ、行き過ぎた応援が問題視され野球禁止の学校まで出て来るようになった。過剰なブームには反動として批判も大きくなっていく。人気の東京六大学野球が選手獲得のため、引き抜きや授業料の免除、挙句には小遣いの支給まで行うような状況になっていた(球探)

早稲田大学野球部長の安部磯雄はアマチュアとしての六大学野球に疑問を感じていた。安部の学生野球浄化の流れの中で、教え子だった河野安通志が『プロ球団を作りプロとアマの間に明確な線を引く』事を決意した。安部は河野の提案に賛同し、1920年に資本金10万円で職業野球団「日本運動協会(通称芝浦協会)」を設立した。早稲田OBの橋戸信社長・河野安通志専務・押川清専務が中心となった。出資者は慶大の桜井弥一郎と神吉英三、東大の中野武二、日本石油の大村市蔵、阪神電鉄の野口社長となっている(猛虎歴研)

早稲田OBの橋戸信・河野安通志・押川清。日露戦争のさなかに渡米した早稲田チームのメンバーである。彼らはアメリカでの見聞から、球団は自前の球場を持つべしと考え、まずは資本金の大半を投じて「芝浦球場」を造った。当時京浜線の田町駅近くで海に面し、最大二万人が収容可能だったという。翌1921(大正10)年から新聞に広告を打って選手を募集。『球探』によると200人、『猛虎歴研』によると74人の応募があり、14名を採用した。

1921(大正10)年10月、14名によるストイックな合宿生活が始まる。野球が上手けりゃいいってもんじゃない、知識知性人格に於いて尊敬を得る人間を養成し、以て今般の学生野球の歪みを正す範となるのだ、本邦運動界の指南車となり、羅針盤たらん、という気負った趣旨で、午前中は英語数学簿記漢文などの勉強に当て、午後に野球の練習、夕方以降はまた勉強、という生活を、対外試合を封印したままひたすら一年間続けた。創立趣意書に曰く、「運動競技は最早や学生の専有物に非ずして国民全部が理解する許りでなく、自ら嗜まねばならぬ時代に到達したのであります。併し運動競技の発達に連れてその弊害も亦多くなりました。これは先覚者の任に当る者が大いに指導し、戒飭を加へねばならぬと信じます」。プロ野球チームなんだけど、イメージとしては「町の剣道場」みたいなのを思い浮かべれば近いんじゃなかろうか。

彼らの目指すところは単に経営的に成り立つプロ球団を作るということではなく、学生野球と同等の(ひいてはそれを超える)社会的ステータスを得ることだ。2006年現在にはなかなか想像しにくいことだが、明治、大正、昭和半ばまで大学生は「学士様」と呼ばれ、一般庶民とは違うエリートで、だからこそ学生野球は野球の頂点なのである。見たわけじゃないので直接は知らないが、どうもそうらしい(このページのグラフによると、大学進学率は昭和31年でようやく10%だ)。逆に、「職業野球」という言葉には蔑視のニュアンスがあった。どのくらいあったのかリアルに知ることはむずかしいが、どうもかなり明白にあったようだ。この時代についての知識が増えれば増えるほどにそう思われて来る。現在、女子アナがプロ野球選手と結婚するのは典型的な「勝ち組パターン」と見なされているが、沢村栄治の奥さんなんか、結婚したとき「なんでそんな下賤なモノと」みたいな大反対を受けたという。

創立メンバー14名のひとり(捕手)片岡勝氏語る:「学歴はなくても、将来、大学選手と対等に口をきけるだけの学力、社会常識を身につけなければ、プロ野球を世間に認めさせる事は出来ないといわれ、一生懸命に勉強しました。また簿記などは、いつか年をとって野球が出来なくなった時に役に立つように、という配慮でもありました(『もうひとつのプロ野球』)」「ゲーム中、しばしば『商売、商売』と野次られた。エラーをすると『月給が下がるぞ』といわれた。あのころはサーカスのようにどんなに高度の技術でも、お金をとって興行的に見せるものは芸人といって卑しんだが、われわれは野球の芸人扱いされた」。決して大昔の話ではない。こういう雰囲気は昭和の半ばまでは大きく変わらずに続いた。例えば川上「野球の神様」哲治が巨人軍と契約するのは日中戦争さなか、日米開戦直前の昭和13年だが、川上はその時を回想して「世間も、野球を商売にするなんてロクなヤツじゃない、と好奇の目でしか見てくれない」と書いている。

じつは今日、稲見純也さんの記事を読んで驚いた。

大学生を応援することが、大学生のためにならないこともある 2006/02/27

(ラグビーの)トップリーグのゲームはいつもガラガラでも、早慶戦は3万人は入る。今年の日本選手権準決勝でも、早大が出場した秩父宮は満杯で、NECと三洋電機が激戦を繰り広げた花園はガラガラだった。日本のラガーマンは、大学時代が注目を浴びるピークなのだ。

そうなのか。ぜんぜん知らなかった。日本における学生スポーツの特異な人気というものは、おそろしいことに2006年現在も衰えることなく続いているらしい。新橋のサラリーマンのみなさんなんか、どちらかと言えば大学生(若い連中)を毛嫌いしてそうなイメージがあるけど、なんでスポーツとなると別なんだろうか。そう言えば「神の国」発言で有名な森喜朗がラグビー早慶戦を観戦しました、みたいなニュースは何度か見た記憶あるな。

合資会社日本運動協会は対外試合を封印したまま、芝浦球場の運営で興行収入をあげた。早慶戦の中止が続く中、球場開きは稲門倶楽部(早稲田のOBチーム)対三田倶楽部(慶應のOBチーム)。「当日、新設の芝浦球場は早慶両校のファンでふくれ上がった。この時の始球式を後藤新平がフロックコートにシルクハットで颯爽と行って満場の拍手を受けたという。この三田vs稲門戦の収益の半分が日本運動協会の取り分であり、貴重な収入源となった」「芝浦球場が三田−稲門戦で賑わうにつれ、日本運動協会野球チームは『芝浦協会チーム』あるいは単に『協会チーム』と呼ばれるようになった。その頃、14人の見習選手たちは練習と勉学に明け暮れていた(球探)」

大陸遠征

1922(大正11)年6月、協会チームは朝鮮満州に遠征し、初の対外試合を行う。2006年現在にはなかなか想像しにくいことだが、前ページに書いた通り、このころ韓国は日本だったんですよ。韓国ではふつう「日帝強占期」と呼ぶらしい。「強占」は昭和20年まで続いた。この遠征に当って選手一同に申し渡された、まことにストイックな「七ヶ条の心得」というのが「球探」にある。要約するとこんな内容。

一、審判には絶対服従し、決して不平がましき態度をなすべからざること。
二、規則に関する事といえども、主将を通じてのみ交渉すべきこと。
三、守備中、味方を激励する言葉以外、敵方を愚弄、軽蔑するがごとき言は決して口外せざること。
四、攻撃中、敵方を揶揄するがごとき事は言わざること。
五、毎回交代の際は 駆歩をもって迅速にその位置につき、またベンチに帰り来るべきこと。
六、旅行中は、各自単独行動は絶対に禁ず。団体の招待等は監督者の命に従うべし。
七、飲酒厳禁。今回の旅行に限らず、本協会へ入会当時の誓約なるも、特に注意す。

釜山での初戦は、現地の日本人チーム「全釜山」戦。以下、デグ−ソウル−仁川−平壌−長春−奉天−旅順−大連と転戦。全部日本人のチームなんだろうか。どこの球場もほとんど満員だったというから興行的には成功なんだろうけど、観客もやはり日本人なんだろうか。韓国統治の実態についてあまりにも無知で、すいません、わからない。この遠征で協会チームは12勝5敗だったそうだ。

協会チームは大陸遠征から帰国後、翌1923(大正12)年にかけて多くの対戦を重ねる。1チームだけプロ球団を作ったという話を知ったときには、そもそも一体どうやって試合するのかと疑問だったが、相手はいくらでもあるのだった。早稲田の二軍、三田倶楽部、稲門倶楽部、全長野、軽井沢外人団、最強チーム早稲田(の一軍)、横浜巨人軍(「銀座」や「富士」が日本中にたくさんあるように、当時「巨人軍」は日本中にあった)、関西の慶応OB軍団ダイヤモンド倶楽部、関西の早稲田OB軍団スター倶楽部、京都巨人軍、米国東洋艦隊ヒューロン号野球団、法友倶楽部、函館太洋倶楽部、などなど。さらに強力チーム、大毎野球団。

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大毎野球団

大毎野球団とは何か。大毎というのは大阪毎日新聞のこと。あらゆる団体が野球団を持っていた当時、大阪毎日が野球団を持つのもごく当然である。1920(大正9)年5月に結成され、1929(昭和4)年に解散した。

当時の関西ではスター倶楽部とダイヤモンド倶楽部の定期対抗戦が人気だった。大毎野球団は「プロとも実業団ともつかない強力チーム」と「球探」にある。大毎が資金力をバックに作った強力チームで、多くの野球人が大毎野球団のことをなんとなく「プロ」と認識していたらしい。しかし1923(大正12)年に、「極東競技選手権」の野球部門に大毎は出場資格があるだろうか、連中はプロじゃんか、という大議論が巻き起こり、改めて「いや、ウチはプロではありません。部員も普段は新聞作製業務をしておりますし、試合に出ても特別手当てなどなく、単なるサラリーマンであります」と宣言した。

じつはこの宣言はウソだったらしい。大毎野球団のメンバーだった菅井栄治氏はこう述べている。「社会部や運動部の記者もやりましたよ。でも、それはあくまでも建前だけのことで、本当の仕事は野球でした。あちこちの毎日新聞の販売店に頼まれて遠征し、地元のチームと試合をすると毎日新聞の部数がふえる、というわけです。当時はセミプロという妙な言葉がありましたが、われわれの気持ちもそんなところでした」

1921(大正10)年、大毎野球団は東京遠征で早、慶、明と連戦。九州遠征で12戦全勝。満州遠征で22勝5敗1分。帰阪後来日していた全ハワイ、カナダ、シャマンインディアン、ワシントン大学、全ハワイスター各チームと対戦。この年55勝9敗、一躍最強チームとしての評価を得る。

1922(大正11)年、台湾遠征。4月東京遠征で早、慶、明と連戦。5月北海道遠征。8月満州朝鮮遠征して12勝2敗。10月には来阪した早大に勝利。東上し駿台倶楽部、慶応に敗れ稲門倶楽部、早稲田に勝利。芝浦協会と初対戦し6-1で圧勝。両軍は11月大阪・寝屋川球場で再戦し3-0で再度大毎が勝利。11月、芝浦球場に於いて「大リーグ選抜軍」に9-3で勝利。

1929(昭和4)年、大毎本社の方針転換で解散。

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天勝野球団

1923(大正12)年6月6月18日、芝浦協会は二度目の大陸遠征を敢行、ソウルへと向った。そこには強敵天勝野球団が待ち構えていたのである。天勝野球団とは何か。

明治時代、松旭斎天一という西洋奇術師がいた。天一の弟子に天勝(「テンカツ」と読む。「テンショウ」にアラズ)を名乗る美貌の女子がいて、天一とともに一座の人気を支えた。17歳の頃には一座の花形に。初代引田天巧と現・プリンセス天功みたいなものか。どうしてもそれ以外のイメージが湧かない。実際、Wikipediaによれば、初代引田天巧も松旭斎一門の系譜なんだそうだ。天勝は天一の妾だった、とも書いてある。弟子を妾にしたのか、妾に奇術を仕込んだのかはわからない。本名は中井かつ。1886(明治19)年5月21日、東京、神田生まれ。大正4年、32歳の時、一座の支配人「興行界の惑星といわれた切れ者」野呂辰之助と結婚。

1921(大正10)年、野呂辰之助は天勝野球団結成を決意。日本運動協会が選手募集を始めた年である。あらゆる団体が野球団を持っていた当時、奇術団が野球団を持つのもごく自然なことだった。「当時は興業団が趣味と宣伝をかねて野球チームを持つのがひとつの流行であったようだ。他にも新国劇、新派、浅草オペラ、東京相撲(現、大相撲)も野球チームを持っていた(球探)」。大相撲かぁ。相撲取りが野球選手を集めたのか、それとも相撲取りが野球をやったのか。後者なら観てみたいが。

「大平昌秀の『異端の球譜』によれば、(天勝の)野球部員たちは他の座員たちと違って、大道具を組み立てるなどの力仕事も免除され、女性座員たちから憧れのまなざしでみられる特別な存在だったという(巨怪伝)」。『巨怪伝』によれば天勝野球団は結成当初はいいかげんなチームで、奇術団の巡業地に先乗りして、わざと負けて向こうの御機嫌を取る、みたいなことも多かったという。『巨怪伝』ってなんだよ、と気になる人は、しばらく我慢して続きを読んでください。

しかし野呂辰之助という人はほんとうに野球が好きで好きで、芝浦協会の奮闘なども見るにつけ、真剣に最強を目指したいという思いが募り膨らみ、大学出身有力選手を集め、プロ化を宣言する。プロの定義はむずかしいが、プロを宣言すればプロだろう。こうして1923(大正12)年初頭、芝浦協会に続き日本史上二番目のプロ野球チームが生まれたのである。このチームのエースピッチャーは青山という人で、東京相撲団から参加した元力士、現役時代の四股名は「台湾」だそうだ。やはり「東京相撲」は野球をやる相撲取りのチームらしい。芝浦協会と天勝野球団を並べてみると


[ 設立者 ][ 集めた選手 ][ 気風 ]
芝浦協会軍:橋戸信、河野安通志、押川清
など大卒エリート
公募で集まった
庶民派子弟
熱い使命感、
ひたすら高潔
天勝野球団:芸人。の元メカケ。
と結婚した遣り手興行師
大卒有名選手を
スカウト
チョイ悪、
テキトー


・・・ということになっている。庶民の子弟を善導せんと使命感に燃えるエリートと、エリートを金で雇って最強チームを作ろうとする叩き上げ興行師。人生というのは不思議なものだ。1923(大正12)年3月、京阪寝屋川球場にて大毎野球団とやって1勝1敗。さらに奇術団の先乗りとして満州、朝鮮遠征へと旅立ち、そこで連戦連勝。そして6月、ソウルへ。「成績を21勝1敗として、一行はソウルへと向った。そこには対馬海峡を越えて芝浦協会がやってくる。いよいよプロ対プロの決戦が行われようとしていた(球探)」。

ソウルで「満都のファンを熱狂せしめた」という天勝軍と協会軍の戦いは一勝一敗のタイで終わった。満都のファンというのは誰のことなのか。たぶん日本人のこと、か?

part 02/4/the great kanto earthquake struck in 1923

関東大震災

その後両チームはそれぞれに転戦、それぞれに帰国。たぶん当時は「帰国」ではなく、「内地へ帰還」と言うのかも知れない。そして8月、東京・芝浦球場にて協会軍対天勝野球団の史上三戦目、ソウルでの決着を期す試合が行われた。「日本に現在二つしかない職業野球団同士の、内地に於ける初顔合わせ(『野球界』)」「現在の日本に於て、数ある灰色の野球専門チームから裁然として鮮明の旗幟を樹立する唯二つの野球団」「遠征後の協会軍が強さは萬人の等しく感嘆する処」「陣容の整備はオサオサ大毎に次ぐ粒揃ひ・・・天勝軍は正しく堂々たるチーム」「天勝と協会軍は正に好敵手である(『運動界』)」。結果は5−1で協会軍が完勝した。そしてその試合から2日後。

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、大地震が東京を襲う。

関東大震災というのは私にとっては親が生まれるよりもまだ前の出来事で、なんだか大変な震災だったらしい、という程度の認識しかない。1995年の阪神・淡路大震災は未だに印象が強いので、あれくらいか、と思っていた。しかし単純に死者行方不明者の数を比べてみると、

死者行方不明者数タテ棒1本3250人

1855年:安政の大地震| 4300人
1995年:阪神・淡路大震災|| 6500人
1923年:関東大震災|||||||||||||||||||||||||||||||| 10万5千人
2004年:スマトラ島沖地震||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||| 22万人

えっ。こんなに違うのか。ソースは例によってWikipediaの、2006年1月17日版。Wikipediaなんかそんなに信用できると思ってるのか、と叱られそうな気がするので一応書いておくとそれは逆で、信用できるかどうかわからないから「○○によると」といちいち書くのである。ちなみに2005年12月のWikipediaには関東大震災の死者行方不明者数は「14万人」と書いてあった。「近年になって、重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、2006年度版から修正した」と書いてある。関東大震災の場合、火事の死者が多いらしい。昼時に起きたため火事が多発し、強風で拡大、2日間火災が続いた。震災で讀賣新聞社が大打撃を受けたことは後に述べるが、芝浦協会と天勝野球団も再起不能のダメージを受けた。

天勝一座はほぼ全財産を失い、天勝野球団は自然消滅。芝浦球場は関東戒厳令司令部と東京市社会局に接収され、救援物資の配給基地となった。スタンドは壊され、グラウンドには倉庫が建てられ炊き出し場が設置される。

この非常事態で強引に接収された土地は、東京中で何も芝浦球場だけじゃないハズだが、とにかく大学のグラウンドはどこも接収されなかったという。こういうところにも学士様のエラさと、職業野球団ならいいだろ、というふうな軽侮の意識が感じられる。年が明けても芝浦球場が返還される気配はなく、1924(大正13)年1月23日、ついに芝浦協会は解散を宣言。協会設立から3年目のことであった。

part 02/5/takaradzuka undou kyokai

宝塚運動協会

箕面有馬電気軌道(ミノデン、後の阪急電鉄)は1907(明治40)年創業、1910年に宝塚線開通。と、「球探」にも「猛虎歴研」にも書いてある。1910(明治43)年3月10日、現在の宝塚本線(梅田―宝塚間)・箕面線(石橋―箕面間)が開業したのがミノデンの始まり、と、Wikipedia/阪急電鉄には書いてある。箕面有馬電気軌道という名の通り、当初は宝塚からさらに西進して有馬温泉までつなぐつもりだった。しかしこの計画は断念。

総帥というか創業者小林一三は明治6(1873)年生まれ、慶應0Bで、これがまた野球好きだ。「高校野球の父」とも言える。言われてないけど。1913(大正2)年、ミノ電は宝塚線沿線に豊中球場(豊中グラウンド)を完成させる。「設備的に日本一の野球グラウンドだった。高さ1m余の赤レンガ塀で囲まれ、木製の葦簾張りの観覧席と応援団席もあった」と「猛虎歴研」にある。

1915(大正4)年8月、第1回全国中等学校優勝野球大会(現、全校高等学校野球選手権大会/夏の甲子園大会)が豊中球場で開催される。小林一三が大阪朝日新聞社に共催を持ち掛けたもの。BALL PARK/野球場誌/豊中球場に、朝日新聞の告知が引用されている。

八月中旬を卜し全國各地方の中等學校中より其代表野球團、即ち各地方を代表せりと認むべき野球大會に於ける最優勝校を大阪に聘し豊中グラウンドに於て全國中等學校野球大會を行ひ以て其選手權を争はしめんとす(『大阪朝日新聞』1915年7月2日日刊1面)

後にこの大会は、甲子園球場を建設した阪神電鉄に横取りされた。豊中球場はその後宝塚球場の完成で歴史的使命を終え、閉鎖。跡地はすっかり住宅地だが、1988(昭和63)年、第70回大会を記念して「高校野球発祥の地」を顕彰する小さなメモリアルパークが造られた。今もある。

1918(大正7)年、社名を阪神急行電鉄と改称。宝塚を大阪近郊の一大レジャータウンとすべく、宝塚新温泉、パラダイス、宝塚少女歌劇団、動物園、植物園を設け、さらなる拡充計画の元、1922(大正11)年、野球場、テニスコート、小運動場を含む宝塚運動場を完成させる。その間、慶應のチーム強化のために寄付したりもしてる。早稲田にも人脈があり、1915(大正4)年の正月には早稲田チームが豊中球場で冬期練習を行った。「この時にOBとして河野安通志が同行している。更に市川忠男(後の東京巨人軍総監督、代表)浅沼誉夫(後の東京巨人軍監督)など、やがてプロ野球に大きく関わってくる人物達もこの時同行している。この時小林は早くもプロ野球の可能性を彼等に打診したが河野はまだ時期尚早と答えたという(球探)」。小林はすでに大正12年(たぶん)、「職業野球団打診」と題した文章で、いわゆる「電鉄リーグ構想」を語っている。

職業野球団設立の機運はやや熟して来たように思う。そこで問題はどういう組織で設立するか、どういう方面から選手を集めるか、というのであるが、会社組織又は法人組合等の設立の手段には、いろいろ方法もあるだろうが、要するに設立後営業として成立しうるにはどうしたらばよいか、というのが先決問題である。

という書き出しで、以下勝手に要約すると、「関東にも関西にも、野球場を持つ鉄道会社が複数ある。例えば東京の京成電車/東横電車、関西の阪神/阪急/京阪/大阪鉄道。それが毎年春秋二期にリーグ戦を行えば、各社は入場料プラス乗客収入をも得る。立地条件によって入場者の数が大きく違うと予想されるため、収入を公平に分配する方法を考慮する必要があるが、それさえクリアすれば成立すると思う」「じつは私はこの構想に沿って努力しておるのだが、諸般の事情でなかなか実現しない。遺憾である」「関東と関西で、なにも同時に始めなくてもよい。関西でそういうリーグが軌道に乗れば、きっと東京にも東京リーグができるだろう。そしたら自然と、東西の優勝チームで日本シリーズをやろうということになる」「いきなり野球のための野球団をゼロから作っても、果たして興行を維持できるかどうか心許ない。この点から言っても、始めは電鉄会社が社員待遇で選手を集め、段階的に米国並のプロ化を目指すのが、一番実行可能性の高い方法であると考えている」・・・と、まことに高度な上に現実的な構想だ。


1924(大正13)年1月、東京で芝浦協会の解散が発表されると、「二、三の企業から協会チームを引き取りたいという申し出があったという。その中でも最も熱心で条件の良かったのが小林一三率いる阪急であった。小林は、学生野球の浄化と日本球界の指南車たらんとする協会の理念をすべて継承すると約束した(球探)」。「阪急の小林一三は『東京は当分だめであろうからオレの方で引き受けよう』と、1924年に『日本運動協会』を宝塚野球場にて引き取る事とし、『宝塚運動協会』と名づけた(猛虎歴研)」。「さらば往け、往いて卿等が大成を果たせ。地は芝浦と宝塚の相違はあっても、三年間鍛えた協会チームの精神にさへ揺ぎがなくば、やがて芽は幹となり、幹は枝を生じ、枝は更に華と実を結ぶ(『運動界』大正13年3月号)」。

2月、消滅した芝浦協会の元メンバーは関西に再結集、宝塚運動協会として生まれ変わる。日本史上初のプロ野球チームが芝浦協会、二番目が天勝野球団として、第三のプロ野球チームということになる。ただ一方、いやそうじゃない、宝塚運動協会は芝浦協会が移転して名前を変えただけのものなので、やはり日本史上最初の職業野球団である、という言い方も、世間にはあるらしい。また、そもそも芝浦協会自体が小林一三の提案が元でできたものだ、という見方もあるらしい。Wikipediaの「宝塚運動協会」の項にはそう書いてある。

当時の関西ではスター倶楽部とダイヤモンド倶楽部の定期戦というのが、「関西の早慶戦」として人気だった。そこへ、大毎野球団対宝塚運動協会という新たな黄金カードが生まれる。

1925(大正14)年秋、東京六大学野球連盟が成立。20年にわたり封印されていた早慶戦も、その一部に組み込まれるカタチで復活する。

1929(昭和4)年、大毎本社の方針転換で大毎野球団が解散。対戦相手を失った宝塚運動協会もあっさり解散し、1920年に始まった日本運動協会の系譜はついに途絶えた。

しかしその後小林一三は阪神電鉄のタイガース結成に対抗して、1936(昭和11)年、阪急職業野球団(阪急軍、後の阪急ブレーブス)を結成。宝塚運動協会はこのチームの母体となった。つまり、見方によっては日本運動協会は阪急ブレーブスのルーツとも言え、その命脈は2005年現在、オリックスバファローズ、及び東北楽天ゴールデンイーグルスとして今も生きているのだ、と、無理矢理言えなくもない。いやまあ、生きているのかどうかはともかく、見方によってはルーツなわけだ。

大毎野球団もただきれいに消滅したわけではなく、ナニゴトかをこの世に残した。ずっとのち、戦後の1949(昭和24)年に毎日新聞社は「毎日オリオンズ」を結成してプロ野球に参入するが、Wikipediaによれば大毎野球団はこのとき毎日オリオンズの母体となったという。「千葉ロッテマリーンズ」の項に「毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム・大毎野球団を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大毎野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成」と書いてある。母体とか「大毎野球団を基礎に」とか言っても20年もブランクがあるんだから、例えばどういう意味で母体と呼べるのか、ちょっとわからないが。それに大毎野球団は大阪で、毎日オリオンズのホームは東京、後楽園球場だ。選手が20年後に球団幹部になったとか、そういうことだろうか。ともあれ、毎日オリオンズは後に大映ユニオンズを吸収合併して大毎オリオンズ(1957オフ)、さらに東京オリオンズを経て、1969年、ロッテオリオンズ、1991オフに千葉ロッテマリーンズを名乗る。つまり大毎野球団というのは、千葉ロッテマリーンズのルーツなのである。

part 02/6/matstaro shoriki

「巨怪」正力松太郎と讀賣新聞

正力松太郎という人のことはよく知らないが、「読売新聞」と「プロ野球」の関連でよく聞く名前だし、本多技研における本多宗一郎みたいな、松下電工における松下幸之助のような、ミスター讀賣と言うか、まあ創業者ではないにしてもそれに近い、生え抜きの二代目か三代目だと思っていた。調べてみると全然違う。以下は基本的に佐野真一著『巨怪伝』がソース。(なお、「讀賣」と書いたり「読売」と書いたりしてることにはなんら意味はありません。なんとなく「讀賣」という字面を気に入ったので、たまにそう変換してるだけ)

正力松太郎は1885(明治18)年、富山屈指の金持ち(土建業)の家に生まれた。小林一三より12年若い。東京帝国大学法学部独法科卒、内閣統計局に入る。高等文官試験に合格後、28歳で警視庁入庁。当時は帝大出が警視庁に入るということ自体珍しく、「学士様」として庁内の注目を浴びる。翌年日本橋堀留署長。1917(大正6)年、牛込神楽坂署署長、警視庁第一方面監察官。1919(大正8)年、警視庁刑事課長。34歳。・・・たぶん『踊る大捜査線』の「室井管理官」柳葉敏郎みたいのをイメージすればいいんじゃなかろうか。特技は柔道。体形、面相は柳葉系ではなく、ジャガイモ系。

2005年現在、警視庁内のエリートの姓名なんて一般庶民は普通知らないでしょう。しかし当時の正力松太郎は剛腕コワモテの警察官僚として有名人だったらしい。「警視庁に正力あり、との声価を一挙に高めたのは、第一方面監察官時代に遭遇した早稲田騒動(1917年)と、米騒動(1918年)の水際立った鎮圧ぶりだった」と、『巨怪伝』に書いてある。

1921(大正10)年、36歳にして警視庁官房主事。官房主事というのは警視庁のナンバー2で、「政治、思想、労働、外事などの重要情報を拾集する一方、政界の裏工作を一手に」握り、「匙加減ひとつで内閣の命運も左右する」重大部署で、毎月三千円の機密費を自由に使えた。当時の三千円というのは、西暦2000年で言うと一千万弱らしい。さらに、警視庁特別高等科、通称特高を所管する部署でもある。特高というのは、「治安維持の名の下に社会主義・共産主義など反体制危険思想とされた活動の弾圧・取締のために設けられた警察組織で、国体護持は他の活動より特別に高等、重要であるとする思想から命名された。秘密警察・白色テロリストの代名詞として悪名高く、治安維持法に関する実働部隊でもあった。太平洋戦争敗北後の1945年10月にGHQの指令により、治安維持法廃止と共に解体された」ちゅーものです。

丸山幹治は警視庁時代の正力のことをこう書いた。「警察界の名物男」「サーベルの親分として世間に知られているのみでなく」「赤池警視総監が、何か面倒な問題が起きれば一寸正力に訊いて来いという程の、梟の如く闇黒界に光る眼力の持ち主」。

橋本道淳はこう語った。「官房主事の官舎は今の有楽町駅の界隈にあったんだが、近衛文麿はじめ政界の大立者が毎日のように出入りしていた。部屋には小さな金庫があって、警視庁の対政界機密費を一手に握っていた正力松太郎は、憲政会の三木武吉や、政友会院外団の大野伴睦に政界裏工作の資金をしょっちゅう渡していた。正力に相談しなければ政局は一歩も前へ進まないという状態だったんだ」。情報も金も武力もスパイも人脈もすべてを持つ男。バットマンに出て来る闇の王みたいな感じか。まだ36歳ですよ。2005年現在、「範馬勇次郎の父親はどういう人物か」という問題が存在するが、もしかすると正力松太郎ではないだろうか。

1923(大正12)年、警視庁警務部長。38歳。

同年9月1日、関東大震災。同年暮れ12月23日、「虎ノ門事件」というのが起きる。のちの昭和天皇、当時の皇太子摂政宮裕仁親王がアナーキスト難波大助のステッキ型仕込み銃により至近距離から狙撃された。皇太子は第48帝国議会の開院式に向かう車中で、見物人も警備もたくさんいる中での事件であった。難波大助24歳はその場で逮捕され、翌年11月13日に大審院で死刑判決、その2日後に死刑執行。

「摂政宮」というのは、大正天皇が病弱だったゆえ、その代理を務めるポスト。丸山眞男はこう書いている。「私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳を患っていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それも甚だ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである(昭和天皇を廻るきれぎれの回想)」。

至近距離にもかかわらず弾は外れ、割れたガラスで侍従が軽く怪我した程度だった。しかし大変なインパクトがあった事件で、山本権兵衛内閣が引責総辞職する。警備責任者、警視庁警務部長正力松太郎も懲戒免官。恐るべきスピードで出世を重ねて来た正力、入庁以来初の挫折である。で、その襲われた皇太子が直後に御成婚、その恩赦で懲戒処分を解除される。しかし正力は復職せず、しばし浪人の身を選択する。

当時、経営逼迫する東京ローカルの一新聞社があり、その名を讀賣新聞といった。ただでさえ経営が苦しいところに不運が重なる。関東大震災の起きた日は讀賣新聞銀座新館の落成式当日であったのだ。経営が苦しいのに新社屋建設というのがよくわからないが、とにかくその夜銀座一帯を襲った大火は、新社屋を一夜にして残骸と化したのである。

1924(大正13)年、正力松太郎は貴族院議員郷誠之助に電話で呼び出され、こういうことを言われる。


なあ君、君もどうせ政界に出るんだろう。新聞をやらないか。讀賣を買い給え。なに、金は三井と三菱に出させるから心配ない。



・・・むう。あまりに自分の人生と懸け離れた話で、どうにもリアルに想像できない。「君もどうせ政治家になるんだろう」というのもぴんと来ないが、「政治家になるなら新聞をやれ」というロジックがさらにわからない。わからないが、とにかく『巨怪伝』にそう書いてある。正力松太郎このとき39歳。郷誠之助というのは官房主事時代に築いた人脈の1人で、金持ちの政界人・兼・財界人。背景には長い話があるが、適当に要約すると「手頃な新聞をカネなり人事なりで縛って報国翼賛路線の広報をさせたい、という思惑が政・官・財・軍の四者それぞれにあり、朝日と毎日は既に手頃とは言えない巨大な新聞だったが、二流で経営行き詰まり気味の讀賣なら手が出しやすかった」、ということらしい。闇の王を巡る話なんだから、凡人にぴんと来なくても仕方ない。

その後、三井と三菱は訳あって手を引いた。正力はカネの相談に、伊豆長岡の別荘に逗留中の後藤新平を訪ねる。

後藤新平。1857(安政4)年生、この時は67歳。もとは、名古屋の愛知県医学校で医師。岐阜で凶刃に倒れた板垣退助を治療して、板垣に「大政治家の面貌」だか「政治家でないのが惜しい」だか言わせた男。その後、内務省衛生局を経て1898(明治31)年、台湾総督府民生長官。その後南満州鉄道初代総裁、逓信大臣、 内務大臣、外務大臣、東京市長等を歴任。

正力:「実は今度、讀賣を買い取ることになりました。ついては早急に十万円の金が必要です。今日はその恩借に参上しました」 後藤:「よろしい。その金は引き受けた。いま手元にはないが、二週間もすればできるだろう」

当時の十万円というのは、西暦2000年の貨幣価値で言うと三億だそうだ。そして数日後、後藤新平の娘が正力のところへ、「錦紗の風呂敷に包んだ三万円と七万円を、二回にわけてとどけに現れた」のであった。佐野氏は見て来たように書いてるが、ほんまですか。ほんまだとすると、ほんまにあるんですねこういう話。「伊豆長岡の別荘」「二週間もすればできるだろう」「娘に持たせた、錦紗の風呂敷に包んだ三億円」。まさに松本清張の世界。って読んだことないけど、今度読んでみよう松本清張。

以上、松岡正剛の要約によれば、正力は「後藤新平や日本工業倶楽部の支援のもと、読売新聞を引き受ける」ことになったのである。

「日本工業倶楽部」というのは今後も何度か登場する。関東大震災をもなんとか耐え、2005年現在も丸の内に建つ「当時としては豪華をきわめた大建築で、『資本家御殿』とよばれていた」。もちろん建物の名前と言うより団体の名前で、「大正六年、当時の有力実業家により『工業家が力を合わせて、わが国の工業を発展させる』ことを目的として創立された団体。初代理事長は三井の団琢磨氏」。ちなみに団琢磨というのは團伊玖磨の祖父に当たり、昭和7年に日本橋三越前で血盟団の団員により射殺された。


2005年、ライブドアという会社が日本放送株を大量に買って話題になった。あのままホリエモンがフジテレビの社長になったらどうなってただろうか。部下を連れて行って要職に配置し、従来の社員は一部は反発して退社、残りは留まるだろう。結果として「フジはホリエモンの意のまま」であると同時に「フジの反ホリエモン感情は依然根強い」という、緊張した状態になっただろう。正力松太郎と讀賣の関係はちょうどそんな感じだったらしい。社長就任挨拶に対し「ここはポリのくるところじゃない。帰れ帰れ」と怒号を浴びたそうだ。

で、部下を要職に配置する。警視庁特高課長小林光政を総務局長に任命、警視庁警部庄田良を庶務部長に、警視庁捜査係長武藤哲哉を販売部長に任命。朝日新聞は夕刊短評で「讀賣新聞遂に正力松太郎の手に落つ、嗚呼」と書いた。

正力を形容する言葉は『巨怪伝』の、ほんの冒頭だけでも、「大衆の欲望を吸い付くした男」「希代の興行師」「大衆操作の天才」「驚嘆すべき精力と並外れた人心収攬術」などなど、デラックスでいかがわしい。彼はジャーナリストではなかったが、かと言って出世好きで独裁好きのただの威張りん坊ではなく、企画プロデューサーとして非常に優秀だった。讀賣社長就任直後、「納涼博覧会」を企画。国技館の中にお化け屋敷を作るというバカバカしい興行なんだが、「緊縮だけなら誰でも出来る、苦しい時こそ積極策。絶対にこの企画は当てる自信がある」と強引に反対を押し切り、結果は大成功。興行で儲けを出し、さらに下町一帯に讀賣の名を売った。紙面は基本的にいわゆる「三面記事」に力を入れ、扇情的見出しを増やしたことも当たったんだそうだ。そうですか。

「目的をたてたら色々考えをめぐらすが、やるときは簡単にやる。他の人は、どうもつまらぬところでくどくど考え過ぎて、労力を尽くしてしまって、肝心の実行ができない」と、日本代表フォワードに聞かせたいような台詞も残している。


ところでこの1924(大正13)年は甲子年(きのえねのとし)に当たった。「きのえねのとし」というのは「五行大義(?)」の冒頭に来る特別な年らしい。この年、兵庫県西宮市に新しい野球場が完成し、「阪神電車甲子園大運動場」と命名される。現、阪神甲子園球場。この年、山本球場(八事球場)において第1回全国選抜中等学校野球大会(現、春のセンバツ)が開かれる。主催は毎日新聞。第2回から甲子園が会場となる。

1925(大正14)年、ここまでの話に何度か登場した皇太子摂政宮裕仁親王、要するに若き日の昭和天皇の強い希望で「宮内庁野球班」というチームが結成された。あらゆる団体が野球団を持っていた当時、裕仁親王の野球団というものも存在したのである。主に早稲田の選手に声をかけ、卒業後宮内庁に就職させたそうだ。ちょっと現在では考えにくいが、当時そうやって宮内庁入りした人々は基本的に、名誉なことだと喜んだらしい。主な対戦相手は安田生命などの実業団チーム。尾上菊五郎のチームや、天勝野球団有志によるチームなんかとも試合をした、と『巨怪伝』に書いてある。「おのえ・きくごろうのチーム」。今で言うとたけし軍団のチームみたいなものだろうか。この時代の職業野球は「見せ物稼業」として蔑視されたそうだが、皇太子の遊び相手に選ばれたりするところを見ると見せ物の代表、歌舞伎役者はまた別格なんだろうか。天勝野球団は蔑視されてないのか。皇太子の遊び相手に選ばれるかどうかと、世間的に軽んじられることとはまた別なんだろうか。わからないことだらけだ。同年7月、日本最初のラジオ放送。

正力読売の最初のヒット作と言われてるのは「よみうりラヂオ版」だそうだ。「ラジオ版の紙面をつくったのは読売だけだった。他の新聞社は、ラジオは近い将来、新聞の敵になるだろうとの予測から、ラジオ番組を新聞に載せることを一切御法度としていた。(中略)正力の狙いは図星だった。半年もたたないうちに読売は一万部以上の増加を見せ、ラジオの普及と共に増紙の勢いは、いよいよ加速度的となった(巨怪伝)」。やがてどの社も、読売に追随したのである。

1926(大正15)年、讀賣新聞は本因坊田村秀哉と雁金準一七段の囲碁戦を企画、「上野公園と日比谷公園に三メートル四方の大碁盤をしつらえ、一手一手の進行をつぶさに報道して、囲碁ファンを熱狂させた(巨怪伝)」

1926(大正15)年12月25日、大正天皇崩御。讀賣新聞は「年内いっぱい全ページ黒枠で囲い、読者の話題をさらった」という。やるなー。そういうわけで、1926年は大正15年なんだが、昭和元年ともなった。以下次章。