IIIIIINDEX

03:戦時下立志篇

1926-1945
part 03/1/erotesque?

グロチック、エロテスク、セセーション

1927(昭和2)年、チャールズ・リンドバーグが大西洋横断飛行に成功。同年、毎日新聞の主催で第1回都市対抗野球大会が行われ大人気を博す。会場は神宮球場。1938年から後楽園。1988年から東京ドーム。

正力讀賣の紙面は、釣り、競馬予想、宗教欄、ビリヤード欄、麻雀欄、というような新機軸をことごとく当てて部数を伸ばす。まさにスポーツ新聞の父。昭和2年、名人木村義雄と全八段の総当り戦を載せた将棋欄が大ヒット。昭和4年、上野の東京府美術館にて「日本名宝展覧会」を開催、空前の大盛況。昭和7年、江東版(日本初の地方版)を設けて大ヒット。昭和8年、フランスからボクシング世界チャンピオンを招聘、日仏対抗拳闘選手権が大ヒット。同年、自殺の名所として知られる三原山火口を探検するという、なんだかよくわからない猟奇野次馬紙面連動連載企画が大ヒット。さらに日本橋白木屋で「火口探検三原山博覧会」というイベントを開いて大ヒット。昭和10年秋、東急の五島慶太を口説いて多摩川園で菊人形展を開催、大ヒット。絶好調だ。「理想なんてものはない。勢力を拡大できればそれでよい」みたいなあけすけな言葉も残していて、こういう了見の人間がプロ野球の父かと思うと複雑な思いである。正力は「新聞の生命はグロチックと、エロテスクとセセーションだ」とも発言して、ひでー英語力だと失笑を買った。

彼は金銭にはさほど執着がなかった(金に困ったことがないため)が、名誉欲と、人の手柄に対する嫉妬心に尋常でないものがあった。と巨怪伝に書いてある(とは言っても、金儲けが大好きだった様子もたくさん書いてあるが)。だから正力伝説は正力自身によって大幅に水増しされているらしい。「正力松太郎が競馬予想欄を始めた」とか「正力松太郎が火口探検三原山博覧会を開催」とか「正力がボクシング世界チャンピオンを招聘」とか書くと、すべてを正力がやったように聞こえるけど、実際にはアイデア出したのも奔走したのも部下の誰かで、正力は「よし、やれ」と言っただけ、とか、それどころか正力は終わってから知った、とか、とにかく具体的な関与の度合はそれぞれなのかも知れない。

正力は成功した企画はとーにーかーくすべて自分の手柄にして、しかも社内的にそういうことにするだけでなく、伝記を書かせたり、紙面上の『正力コーナー』で将軍様の偉大さを喧伝させたりした。『正力コーナー』は少なくとも1965(昭和40)年まで存在したらしいが、『正力コーナー』という名前の連載記事があったのか、そうじゃなく、しょっちゅう正力様礼讃記事を載せるので「正力コーナー」と揶揄された、という話なのか、巨怪伝の記述ではわからない。いくらなんでも前者のわけはないので、後者だろうか。

1924(大正13)年に6万部弱だった讀賣の発行部数は、1934(昭和9)年には57万7374部と、十年で十倍に躍進。昭和12年には88万5469部で首都圏トップの座に立つ。昭和13年、百万部突破。

part 03/2/nichibei-yakyu 1931

日米野球1931

昭和4(1929)年、夏。北半球周遊飛行中のツェッペリン伯爵号が霞ヶ浦に近付きつつあるころ、と言うから、映画『スカイ.キャプテン』の時代設定はこのあたりか。報知新聞論説委員の池田林儀がこう言った。「正力さん、ベーブ・ルースを日本に呼びませんか」。この年は大毎野球団と宝塚運動協会が解散した年でもある。

保証金を25万円積めばベーブ・ルースが呼べると言う。正力が讀賣新聞社を買った額が十万円ですよ。当時の十万が2000年の三億だそうですよ。その比率で言うと25万というのは七億五千万だ。言われた正力は、後にボクシングも当てた火口探検も当てた菊人形展も当てた男である。ベーブ・ルースなんて名前は初耳だったし、そもそもいくら説明されても野球のルールも呑み込めないんだが、大衆の興味を喚起するセセーションがあればよいではないか。よし、やろう。

しかしベーブ・ルースはオフの映画出演が決まっていて、結局この話は実現しなかった。

1930(昭和5)年、球界に知識と人脈を持つ二人を口説いて讀賣に入社させる。ひとりは早稲田大学野球部監督市岡忠男。三原脩が早稲田に入ったときの監督で、市岡の入社は後に讀賣が三原と契約する布石ともなった。もうひとりはメジャーリーグ通の鈴木惣太郎。当時、野球といえばなんと言っても東京六大学リーグで、圧倒的な人気があった。ついで高校野球と実業団。朝日は夏の高校野球を、毎日は春のセンバツと、社会人都市対抗野球を主催して、部数拡大に大いに効果を発揮していた。んだそうだ。

朝日が高校野球を主催して、なんでそれが朝日新聞の拡販につながるのか、正直私には理解できない。しかし世間はそういうもんなのか。正力からすれば朝日と毎日がうらやましい。しかしいまさら讀賣が高校野球や実業団野球に食い込む余地もなく、大学野球では金儲けはできず、職業野球の可能性を探る以外に道はなかったのである。と、立石泰則著『魔術師』にも書いてある。この「魔術師」というのは「知将」三原脩のこと。

1931(昭和6)年、ついに大リーグ選抜チーム招聘を実現。これを称して第一回日米野球と言う、こともある。ただ、日米野球という言葉は「日本のチームとアメリカのチームが試合をする催し」を意味する一般名詞に聞こえるが、だとすると「第一回」はおかしい。もちろん讀賣にとっては初めてなのでその意味でなら正しいが、現在の我々が第一回と呼ぶのはバカげている。それまでに少なくとも

1907(明40)年:ハワイの「セントルイスチーム」来日
1908(明41)年:3A選手中心の「リーチ・オール・アメリカン」来日
1913(大02)年:ジャイアンツとホワイトソックスの選手からなる「世界周遊野球チーム」来日
1920(大09)年:3A選手中心の「オール・アメリカン・ナショナル」来日
1922(大11)年:大リーグ選抜来日
1927(昭02)年:ニグロリーグの「ロイヤル・ジャイアンツ」来日

などといった日米野球の歴史があるのだ。逆に、イヤ日米野球というのは一般名詞ではなくて、昭和初期に讀賣が大リーグ選抜を招聘した興行のことを指す固有名詞なのだ、という立場もあるかも知れないが。

まあそれはともかく昭和6年、満州事変が起きた年だ。

この年の大リーグ選抜は日本で17戦し、圧倒的に全勝した。初戦は神宮球場で、対・立教。二戦目も同じく神宮球場で、対・早稲田。「スタンドを埋めつくした六万人の観衆」と『巨怪伝』にある。神宮球場に六万人? そんなに入んねーよ、と最初思ったが、私が間違ってたようだ。昭和6年(1931)5月の改修工事で正規収容人員は5万8千人になった、直後の六大学リーグ戦には7万人が押し寄せた、と明治神宮野球場公式ホームページに記述がある(2005年現在は4万5千人らしい)。三戦目も神宮球場で、対・明治。「讀賣が読者人気投票で選抜した全日本オールスターチーム」というのもやった。讀賣が東京での試合を仕切り、大阪興行を阪神電鉄が仕切った。ノンプロ阪神電鉄軍は大リーグ選抜と2試合やり、2日間で7万円の興行収入をあげる。今で言うと2億か。名古屋では新愛知新聞が1試合。他に、仙台、前橋、松本、横浜、静岡、下関。17戦の合計では、入場料だけで36万円に達したという。

ちなみにこのころ、まだテレビはない。都市部の子供たちの代表的なお楽しみは、紙芝居だったらしい。「かみしばい博物館」によると紙芝居が始まったのは昭和5年の東京。「昭和の初めは大不況の時代で仕事のない人が数多くいました。手軽に始めることができた紙芝居は仕事を探している人には人気がありました。中にはトーキー(音声つき映画)の登場で仕事のなくなった活動弁士(かつどうべんし・無声映画の説明をしていた人)や講談師(こうだんし)なども紙芝居屋さんになったと言われています。同じ紙芝居でも紙芝居屋さんによって、読み方もいろいろ。なかには、役者顔負けの演技をする人もいたそうです」、とある。2006年現在、職を失った者の脳裡に浮かぶ転職先の代表格はタクシードライバーだと思うが、それが当時は紙芝居屋なのか。

翌1932(昭和7)年、五・一五事件。よく知らんけど、首相犬養毅が官邸で軍人に射たれて死んだ事件だ。同年、文部省が「野球統制令」というものを出す。「学生は今後いっさい営利目的の試合に出てはならん」というもの。これは「近頃野球熱が余りに過熱して、青少年の健全育成を阻害しかねん」というような話であると同時に、アメリカのプロチームを呼んで大学野球チームと対決させる興行に対して、学生を使って金儲けとはけしからん、との批判が強かったため。

part 03/3/Eiji SAWAMURA

沢村栄治の生涯

いわゆる第二回日米野球(讀賣にとっては二度目なので、その意味でなら正しい)は、1934(昭和9)年11月に行われることが決まった。前回との大きな違いは野球統制令だ。今度は早稲田や慶應との対戦は組めない。選抜チームを作らないと、相手するチームがない。それで三原脩(早稲田出身、のちの『魔術師三原』)、水原茂(慶應出身の名三塁手にして投手。三原生涯の好敵手)、苅田久徳、中島治康、田部武雄など、六大学OBを集めた。このうち一番さいしょにスカウトしたのが三原脩で、契約が1934年の6月6日、これがいわゆる「三原脩が職業野球第1号の契約選手」という話。讀賣にとっては第1号だから、その意味でなら正しい。第1号だから、この時点ではまだチーム自体が存在してなかった。ちなみに三原は年俸二千円、苅田は月給百五十円、と巨怪伝にある。なんで三原だけが年俸なのかはわからない。

当時の高校野球界(当時の言葉では中等野球界)に、凄いと評判のピッチャーがふたりいた。京都商業の沢村栄治、旭川中(旧制中学)のヴィクトル・スタルヒン、ともに17歳。これも強引に口説いて「全日本選抜チーム」に加えた。野球統制令に抵触しないよう、学校は退学させた。高校球児のところにプロ契約の話が来ればうれしいだろう、と思うのは現在の考えであって、当時は六大学入りこそが栄光の道だった。プロ野球なんて「昔そういうのがあったけど失敗したじゃん」ってものに過ぎない。信用もないしステータスもない。そこで「いやご安心ください、あの早稲田の三原脩君がすでに契約しております、これこの通り契約書に判もあります」というのが口説きの決め手になった。と、『巨怪伝』にも『魔術師』にも書いてある。つまりそういう効果を期待して、神宮のスター三原とまず契約した、と。しかし三原自身はこの時、プロ野球が日本に定着するとはまったく想像してなかったらしい。

◆◆

沢村栄治という人は栄光に包まれて生きた大投手かと思っていたが、実際は(大投手だったとしても)恵まれた生涯とは言い難い。以下は『巨怪伝』とWikipedia以外に、主に「沢村栄治記念館で学びました。

沢村栄治は大正6年(1917)2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)の八百屋(のちに乾麺屋に転ず)に生まれる。右投げ左打ち。京都商業に進学、強豪市岡中学相手に延長13回を投げ抜き、39アウトのうち31奪三振というとてつもない記録を作った(ただし練習試合らしい)。34年夏の地方予選では48回で97三振。準々決勝の京都一工戦では29打数23三振、ノーヒットノーラン。怪物である。高々と足を上げるフォームは同時代の投手の憧れで、Wikipediaの「巨人の星」の項には「つま先が天をさすほど高々と脚をあげる投球フォームは、飛雄馬のモデルのひとつであるだろう」とある。沢村獲得は日本選抜軍(というか読売というか)の至上命題だった。

沢村の父、賢二の手記にはこうある(巨怪伝)。

私としては腰元さん(腰元寿、慶應野球部監督。沢村は腰元のコーチを受けていた)への恩義もあり慶應への進学を正しい道と信じていましたし、当時海のものとも山のものとも分からない職業野球に投ずることは、いくら条件がよくても、私のとりまきの友人が反対しました。当時の社会的感覚からいっても「野球をやって商売にする」なんてことは、不自然以外のなにものでもなかった時代でした。しかし正力さんのたっての勧誘もあり、一度会って話すだけでもいいと言うので、私も悪い意味での好奇心に駆られて、栄治と同行、東京へ出かけたのです。
(中略)
そのときの正力さんの情熱は物凄いもので、「とにかく日本の野球も必ず職業野球の時代がやってくる。だから栄治君のことは僕に任せてくれないか、その時だけ面倒を見るというのではなく、先の先まで栄治君のことは面倒を見るから、正力を信用して万事お任せ下さい」と力強く立派に言い切られたので、私もとうとうその情熱に負けてしまったのです。

子沢山で貧乏な沢村家の生計の足しになるなら、という本人の孝行の思いも作用して、沢村は慶應進学を断念、全日本選抜軍入りを選択する。これが昭和9年10月の話だ。11月20日、静岡草薙球場での第10戦、全米軍相手に9奪三振、与四死球1、被安打5の「世紀の快投」を演じ、全国を熱狂させる(試合は0-1で負け)(この試合のことばかりがあまりにも有名だが、第5戦は10-0で負け投手、第16戦は14-1で負け投手、最終第18戦は14-5で負け投手と、これ以外の試合では打ち込まれた)。

昭和11年にはプロリーグが始まる。しかし昭和13年1月に召集令状が来て歩兵第33連隊(三重県津市)に入隊、4月、軽機関銃射手として中華民国遼東半島から大別山麓に移動、武漢三鎮攻略戦に参加。手榴弾の投げ過ぎが肩を蝕み、左手には貫通銃創を負い、さらにマラリアを発症。15年1月満期除隊。野球に復帰するが、22歳にしてすでに全盛時の力を失っていた。手榴弾の投げ過ぎで肩を痛めたというのは神話みたいなもんだろう、と、はじめ思ったが、事実らしい。青田昇『サムライたちのプロ野球』によると、沢村は連隊対抗の手榴弾投げ大会(前線への配属より前の話だろうか)で78mを投げ、ダントツで優勝したという。野球のボールは重さ141g、手榴弾はその3倍以上の500gだそうだ。野球選手は体力あって運動神経がよくて目がよくて、物を遠くに正確に投げる能力が高いんだから、前線に送り込むのに向いてるのであった。「沢村栄治記念館」に、多くの証言がある。

水原茂(高松商-慶応-巨人)「彼は三回兵隊にとられて、三度目に死んでしまったのですが、軍隊から帰ってきてしばらくは、重い鉄砲はかつぐわ、手榴弾は投げるわで、肩が駄目になってるんでしょうね、メッタ打ちにあって。それでも彼は気が強いもんだから、水さん、こんどはきっと、目にもとまらぬ速い球を投げてみせるからな、と登板しちゃ、またメッタ打ちにされて。可哀想だったなあ。」
多田文久三(捕手。高松商-巨人)「(戦地から帰還した沢村を見て)沢村さんのあの姿は見たくなかった。球が行かないんだもん。ピッチャーにとって球が行かない、こんな辛いことはないですよ」
志村正順(NHKアナウンサー)「しばらく呆然と眺めていました。あれ、誰だろう?見慣れない、横投げのピッチャーなんていないから。沢村の、変わり果てた姿だった。戦争ってのは残酷なもんだなと思った。あれほどのピッチャーがこうなっちゃうのかと。本当に涙が出るようでした」

昭和16年5月、酒井優子と結婚。

沢村の妻の名はほとんどの文献で「酒井優子」となっているが、沢村と最も親密な文士だったと思われる鈴木惣太郎の『不滅の大投手沢村栄治』では「米井良子」という名前で登場している。これは沢村の結婚が身分違いであり、戦後本名を出すのに何か差し障りがあったためと思われる。優子は四国の素封家の娘で東京女子大出の才媛、沢村は旅の芝居一座などと同一視され蔑視されていた職業野球選手であり、二人の交際・結婚には優子の両親の強い反対があったという。古い文献では名前を書いていないものが多いのも同じ理由であろう。沢村は自分のグラブに「優」の文字を書き、人に問われると「優勝の優や」と答えていたという。(沢村栄治記念館)

同年、ふたたび応召してフィリピンへ。翌年復帰するも1勝もできず。上の証言はこの時のことか、1度目の復員後の話かわからない。先の先まで面倒を見る、と言って読売に口説かれた沢村は、1944(昭和19)年2月に読売からクビを宣告される。失意の中、同年10月、三度目の召集を受ける。入営直前に父が聞いた、息子の最後の言葉は次のようなものだ。

「俺はもっと自分を大切にすりゃよかったんだ。沢村、沢村とちやほやされたものだからいい気になって、自分を酷使してきた。それに対して報われるものが何であったか。俺はていのいいダシに使われたんだ」
「お父さん、やっぱり俺は道を間違ってたんだ。職業野球の世界は、俺にとって過酷であり過ぎた。一介のサラリーマンでもいい。もっと堅実な方向へ進むべきだった。大投手だなんておだてられて、将来のことを考えず、いい気になっていた俺が、つまりは馬鹿なんだ」
「お父さん元気で、僕も頑張って来るから」

それっきり、戻っては来なかった。12月2日、フィリピン戦線に向かう途中、台湾沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け輸送船が撃沈、享年27歳。

part 03/4/Victor STARFFIN

ヴィクトル・スタルヒンの生涯

ヴィクトル・スタルヒンは1916年5月1日、ロシア、ペリム州ニージニタギールに生まれた。翌17年にロシア革命が勃発する。ニコライ二世は退位に追い込まれ、臨時政府が発足、さらにソヴィエト発足、ロシア内戦、などを経て、1922年、ボリシェヴィキは全国ソビエト大会で国家樹立を宣言しソビエト連邦が成立した。とWikipediaに書いてある。

ヴィクトルの父コンスタンチンは帝政ロシアの貴族だった。と『巨怪伝』に書いてある。1918年、2歳のヴィクトルを抱えた両親は革命によりニージニタギールを追われ、放浪の末、ハルビンへ。さらに1925年に旭川へ辿り着く。「辿り着く」と言ったってどういう感じなのか、闇に紛れて密航して来たのか、どうやって食ったのか、明らかに異人さんとわかる風貌でどうやって寝る場所を得たのか、住民票とかどうしたのか、似たような経緯で日本に逃れて来たロシア人は他にもどのくらいいたのかいないのか、とさまざまな疑問が湧くが、わかりません。ハルビンで日本大使館(か何か)に駆け込んで亡命したのかも知れない。北海道テレビのページには

一度ハルビンに住み着くが、やがてそこも追われるようにして日本に渡り、旭川にたどり着いた時には9歳になっていた。 この放浪の旅の間に少年が身に付けたことは、何事にも決して逆らわず、何をされても微笑みを浮かべることであった。

とある。悲しい。しかし少年は、旭川の日章小学校で「野球」という遊びに出会うのである。旭川中(現・旭川東高校)では主戦投手としてチームを二年連続全道中学校野球大会準決勝に導く。全国的には無名だったが、旭川では「怪童」として誰知らぬもののない希望の星であった。身長191cm、右投げ右打ち。父コンスタンチンは当時、旭川でミルクホールを経営していたという。ちなみにミルクホールの名は「バイカル」。

今から書くのはウソみたいな芝居の脚本みたいな漫画みたいな話だが、たぶん本当なんだろう。特に断らない限り、ソースは『巨怪伝』。

大リーグ選抜の来日が近付く中、昭和9年10月5日、読売新聞は日本選抜軍の陣容を発表した。そこにスタルヒンの名もあったが、この時、いまだスタルヒンとの契約は成立していなかった。もしかすると交渉も、接触すらしていなかったのかも知れない。巨怪伝の記述ははっきりしないが、なんとなくそう受け取れる。大読売の、あるいは大正力の力をもって中学生(今で言う高校生)ひとりを獲得できないわけがない、と思っていたらしい(10月5日時点では、たぶん沢村との契約もまだなんじゃないか。『沢村栄治記念館』の年譜によると、沢村が京都商業を退学するのは10月15日だ)。さらに8日、「中等野球界のモンスター」としてスタルヒンを持ち上げる。例えば「今年の甲子園で落合博満が認めたバッターは平田だけ」なんて記事を読めば、甲子園に興味もないし平田なんて初耳である私のような人間でも、いちおう期待はするのである。昭和9年10月、東京の野球ファンは誰一人スタルヒンを知らなかったが、新聞で派手に煽られれば期待は膨らむ。

しかし旭川に、スタルヒンプロ契約の話を歓迎する者はいなかった。甲子園出場は旭川中の悲願であり、それは同時に全旭川市民の希いであり、スタルヒンなくしてそれはあり得ないのである。とうとう11月2日、メジャーリーグ選抜チームが横浜港に到着する。4日、神宮球場にて初戦。しかしスタルヒンの姿はない。読売新聞社には、なぜ中等野球界のモンスターを出さないのか、という抗議が殺到した。

日本選抜軍監督市岡の命を受けた(あるいは依頼を受けた)秋元元男という人が旭川へ飛び(飛ぶと言っても、汽車と船だろうと思うが)、旭川中野球部監督、四戸(しのへ)品三と対座した。すでに11月15日。

四戸:「何もお話しすることはありません。スタルヒンは絶対に退学させません」
秋元:「黙って聞いてりゃいい気になりやがって。俺の後ろにゃ黒竜会ってすげえ組織があるんだ。貴様を日本刀でぶった斬るくらい朝飯前だということをよく覚えとけ」

怖いよー。私ならすぐにごめんなさいと言うところだが、このとき四戸は敢然と「とるんだったらとってごらんなさい。私は野球部の監督として、あなたには絶対にスタルヒンを渡さない」と返答したと言う。スタルヒン本人も「僕は絶対に職業野球には行かない」と決意を語る。秋元による拉致を警戒して地元親衛隊が組織され、スタルヒンを護衛した。獲得工作は万策尽きたかに思われた。

この時秋元は旭川の特高警察より、スタルヒンの父コンスタンチンが、殺人罪で札幌刑務所に服役中、との情報を得る。ミルクホールの看板娘マリアがボルシェビキを礼讃したのに腹を立てて絞殺した、のだそうだ。それだけのことで看板娘を絞殺するほどの憎悪。人はどんな目に会うとそれほどの憎悪を貯えるのか、私にはぼんやりとしか想像できないが。秋元はスタルヒンの身許保証人に手を回し、保証人を下りさせた。そしてスタルヒン母子に、このままではロシアへ強制送還だ、俺の後ろにゃすげえ組織があるから、言うことを聞きゃ守ってやれる、おやじさんも減刑してやる、と言って契約を迫った。外道という言葉があるけど、こういうことを言うのだろうか。

すでにソ連ではスターリンの独裁政権が始まりつつあった。もし本当に送還されるようなことにでもなれば、一家全員銃殺刑という事態の恐れもなしとはいえなかった(巨怪伝)

こうして11月25日午前2時、スタルヒン母子は誰にも見送られずに函館行きの列車に乗ったのである。翌26日、東京着。29日、大宮球場に於ける第17戦、大差でリードされた8回と9回の2イニングだけ、ようやくマウンドに立った。この先は北海道テレビから引用する。

その後、今の読売ジャイアンツに。そこでも毎年40勝前後の勝ち数をあげたスタルヒン。だが国籍がないため遠征すれば取り調べを受け、その風貌ゆえ国内でも街を歩けば憲兵に捕まり、意味もなく殴られた。 戦争が近づくと日本名で名乗ることを強いられた。スタルヒンをもじって「須田博(スダヒロシ)」。スタルヒンはこの名前が嫌いだった。 巨人軍に在籍したあと、太陽、金星、大映、トンボなど弱小球団を渡り歩くことになるスタルヒンは、303勝をあげ引退する。それからはラジオの司会者や俳優として活躍。 だが40歳の時に、運転していた車が路面電車に追突し、死亡。原因は飲酒運転とも自殺とも言われているが、今だに謎のままである。
part 03/5/nichibei-yakyu 1934

日米野球1934

讀賣にとって二度目の日米野球の、前回との大きな違いは野球統制令と、もうひとつは、メンバーにベーブ・ルースが入ってたことだ。1931年の来日チームにベーブ・ルースが不参加だったのが、正力はずっと心残りだったのである。巨怪伝によると、鈴木惣太郎が渡米して、日本に行く気はないと明言するベーブルースをNYで口説き落としたのが10月1日、そうして彼を含む大リーグ選抜チームを連れて日本行きの船に乗ったのが10月20日。現在では考えられないデタラメさと言うかおおらかさと言うか。

「神様」ベーブ・ルースBabe RUTH、「打撃王」「アイアン・ホース」ルー・ゲーリッグLou GEHRIG、「レフティ」フランク・オドゥールを擁する大リーグ選抜チームは東京函館仙台富山大阪名古屋小倉などを巡業、18戦(立石泰則著『魔術師』によると17戦)して圧倒的全勝。しかし11月20日静岡は草薙球場における伝説の第十戦、全日本選抜沢村栄治若干17歳、豪速球と「懸河のドロップ」を操り「世紀の快投」9奪三振(試合は0-1で負け)、というのもあって盛り上がり、全国で大盛況となった。

ちなみにフランク・オドゥール、または「オドール」とか「オルドゥル」とか、というのは、イチローの262本(2004年)、ジョージ・シスラーの257本(1920年)に次ぐ254本(1929年)という歴代三位の年間安打記録を持つ偉大なバッターで、日本野球史に多大な貢献をした親日家、だそうです。2002年、正岡子規とともに日本の野球殿堂に入っている。『魔術師』にはこの時の大リーグ選抜の「監督」だったと書いてあるけど、この本以外ではそういう情報は見つけられず、信用していいのかどうかわからない。ずっと後、戦後初めて来日したアメリカのプロチームは3Aのサンフランシスコ・シールズというチームで、その監督がオドゥールらしい。『魔術師』の記述はそれと混同してるんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろ。「沢村英治記念館」によると監督はコニー・マックで、オドールは「マネジャー」。

part 03/6/dainippon tokyo baseball club

大日本東京野球倶楽部結成

讀賣新聞社(の社長である正力松太郎)は昭和9(1934)年の第二回日米野球をきっかけにプロ球団結成を決意、同年12月26日、大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が結成された。・・・と、いうことが、多くのサイトに書いてある。読売ジャイアンツの公式サイトにもそう書いてある。これを素直に読めば、チームの結成は「第二回日米野球」より後、と受け取れる。12月26日というのは丸の内の日本工業倶楽部で創立総会を開いた日で、いまも巨人軍創立記念日らしい。しかし、11月の日米野球をきっかけに思い立って12月にチーム創立だなんて、いくらなんでもおおらか過ぎないか。

当然、もっと前に思い立って動いてる「男たち」がいるのである、『巨怪伝』ではこのあたり、いろんな登場人物の夢と思惑が複雑に絡んで面白い。すでに昭和6年、「第一回日米野球」は興業的に大当たり、ガポガポ儲かって正力はウハウハ喜んだが、正力と違って野球を愛している市岡忠男とか鈴木惣太郎とかは日米の実力差を目の当たりにして声もなく、悄然と歩く数寄屋橋前、「惣さん、日本にも、職業野球を起こそうじゃないか」「おお市岡君、オレも今それを考えていたのだ」とかなんとか、「Project X」ふうに田口トモロヲの声で読むとぐっと来る。しかし、いちいちの面白い話を省略して結末だけ言うと、その男たちが結局正力に相談して、そしたら正力が「わかった。引き受けた」と答えたという、そういう話になっている。それで、正力が株式会社大日本東京野球倶楽部の発起人会を日本工業倶楽部で行い、創立事務所を開いたのは、巨怪伝によると6月だ。だから「第二回日米野球をきっかけに」というのも、まあ嘘とは言えないが、正確には「第二回日米野球の開催を前にして」ということだ。

6月には創立事務所を立ち上げ、11月4日には神宮球場で全米選抜軍と戦ったチームの、創立記念日がなぜ12月なのか。そこには理由がある。東京に芝浦球場はすでになく、後楽園球場が完成するのは昭和11(1936)年だ。昭和9年、日米野球の東京会場候補は規模の点で、神宮球場以外あり得ない。しかし神宮球場はアマチュア野球の聖地とされ、下賤な見せ物野球の興行を行うなんてことは全く不可能だった。それで日米野球が終わるまでは表面上「このチームはあくまでアマチュアである、それが全米選抜から野球技術の教授を受ける」という建て前を通し抜いた。この時期「間違っても職業野球という言葉は使わないでくれたまえ。これだけはくれぐれも注意しておくよ」というのが正力の口ぐせだったという。こうして日米野球後、全日本選抜はようやく堂々と「大日本東京野球倶楽部」を名乗る。

ジャイアンツ公式の年表には「1935(昭和10)年1月26日:球団結成第1戦を名鉄に14対1で圧勝」とある。そして2月から、四ヶ月にわたるアメリカ遠征を敢行。連戦に次ぐ連戦、とにかく苛酷なドサ廻りであった。四ヶ月で109試合やって75勝33敗1引き分け。数字だけ見ると強いようだが、勝ったのはほとんど「現地の邦人チーム」とか学生チームを相手にした時で、プロにはぜんぜん歯が立たなかった。日程的にも精神的にも過酷な強行軍で、疲労と空腹に苛まれ、試合中に居眠りする選手も出たと言う。と、NHKの『その時歴史が動いた/プロ野球を作った男たち』という番組で見ました。この遠征で学んだことは、まあいろいろあるんだろうけど、ひとつは「野球チームにはニックネームが必要である」ということだ。「DAINIPPON-TOKYO-YAKYU Club だって? それで、ニックネームは?」ということになる。ないと困る。この時フランク・オドゥールが試合日程調整役で、オドゥールのところにも対戦予定相手から、ニックネームを早く報せろ、というクレームが来る。それで

米:「日本でいちばん有名な大リーグのチーム名はなんだい?」
日:「うーん、ヤンキースか、ジャイアンツかなー」
米:「よし、じゃあジャイアンツ。それにしなよ。オケイ?」

とかいうお気楽なやり取りがあって、仮に「東京ジャイアンツ」と名乗って米国内を転戦。まあたしかに、日本人が「ヤンキース」じゃおかしいわけだが(「ジャイアンツ」を名乗るいきさつには異説もある)。『綱島プロ野球研究所』の「OBインタビュー」コーナーに、苅田久徳という当時の名選手のおもしろいインタビューがあるのでぜひ読んでください。「ま、一応、オレたちは日本を代表して出かけたんだな。でも、アメリカも中部のほうに入っていくとね、ジャパンって言ったって分からねぇんだなぁ。みんな知らねぇんだ。そこでフランク・オドゥールと鈴木惣太郎が相談して、ジャイアンツという名前に変えて、残り70何試合をズーッと回ったんだ。シカゴから真ん中に抜けて……、ミルウォーキーだったかな」。翌1936年、正式に「東京巨人軍」と改称。

part 03/7/nihon professional baseball association

日本職業野球連盟創立

大日本東京野球倶楽部すなわち後の巨人軍が誕生したその時、他にプロの野球チームはなかったんだろうか。なかったらしい。しかしプロの定義というのは実はよくわからない。例えば四国独立リーグの選手は野球で給料もらってるんだからプロだと思うが、2005年秋のドラフトで指名がなかったことを「プロからの指名なし」と書かれたりする。現在においてもよくわからないのに、まして日本野球機構なんてものが存在しない当時のことは、一層わからない。が、1935(昭和10)年12月10日、はっきり「プロと名乗るからプロ」のチームとして大阪に「株式会社大阪野球倶楽部(大阪タイガース)」が誕生した(と、タイガース公式サイトに書いてある)。株式会社としての野球倶楽部。名前から見ても歴然とプロだ。阪神電鉄が1931年の日米野球で大儲けしたことはすでに書いた。1934年も同様に儲かった。阪神主脳部には「野球は儲かる」という認識が浸透していたのである。

のちに正力松太郎は、昭和31年に行われたインタビューでこう語っている(巨怪伝)。

「巨人軍を作ると同時に連盟を作ることを考えられたそうですが、そのいきさつをお話し下さい」

正力:「市岡君らの計画は1チームを作り、始めは米国へ行って技術を磨く計画案を建てていた。ぼくは押川、河野両氏のチーム(芝浦協会のこと)がセミ・プロの大毎球団を専ら相手としたため試合が面白くなく、またファンの人気も立たず、大震災後に潰れた前例を考えると、少なくともチームは四つ、多ければ六つくらい各地に興して連盟を結成して、リーグ戦をやらないと失敗するに違いないと思った。

それで関西、名古屋、九州でチームを作らせようと考えた。関西は日米野球を二度やった関係で、甲子園を持っている阪神電車は話に乗ってくれる。阪神がやれば対抗上、阪急もだまっておるまい。名古屋も新愛知新聞は日米試合を二度やったし、読売とは密接な関係にあるから、ぼくの勧誘を受けて立つ。するとそのライバルの名古屋新聞もきっとやるだろう。九州は暖かいし、日米野球も大成功だったので、福岡日日新聞にやらせようと考えた」

「それがうまく成功したんですね」

正力:「そうだ。九州にはできなかったが、その他はできて11年2月、七チームで連盟が結成されることになったのだ」

『中央公論』1936(昭和11)年新年号は「職業野球時代来る!」という特集で、冒頭に正力の言葉がある(と、『巨怪伝』に書いてある)。

「君、10月は経費を差し引いて九千円は確実に残ったよ。11月もかれこれ1万円は儲かった筈だ。来年はもっと率がよくなるだろう。君も早く職業野球団を作りたまえ。一緒に儲けようじゃないか」

昭和10年の10月に九千円、11月に1万円は儲かったと言う。しかしずっとのち、2004年に渡辺恒夫は小林至のインタビューに答えて、ジャイアンツというのは「昭和9年に発足して、23年間も赤字を続けたんですよ」と語っている(小林至『合併、売却、新規参入。たかが…されどプロ野球!』)(と、『見物人の論理』で読んだ)。一体、昭和10年は儲かったのか、赤字だったのか、どっちなのか。

疲労と空腹に苛まれ、試合中に居眠りする選手も出たという過酷な遠征を選手に強いる一方で、オーナーが「儲かってしょうがないよワッハッハ」と発言するのがよくわからない。だいたい、昭和9年は1試合もやってないんだから赤字は当然として、昭和11年にはリーグ戦が始まったわけだが、昭和10年の大日本東京野球倶楽部はアメリカ遠征以後、何をしていたのか。ジャイアンツ公式年表を見ても、1月に静岡草薙球場で初のキャンプ、1月末に球団結成第1戦を名鉄に14対1で圧勝、2月アメリカ遠征、とあるのみで、遠征後は空白だ。

と、思ってたら、その後沢村栄治記念館の年賦に、9月から11月にかけて全国巡業、とあるのを見つけた。正力発言はそれの収支のことか。当時の選手は多くが月給制らしいし。年間トータルで昭和10年は赤字だったのか黒字だったのかと言えば、たぶんナベツネが正しいんじゃないか。

1936(昭和11)年1月、新愛知新聞社による「大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)」が誕生。これが現中日ドラゴンズ。フロントには押川清、河野安通志がいた。上の正力の発言に言及されている芝浦協会設立メンバー「押川、河野両氏」である。さらに2月、同じ名古屋に、名古屋新聞社による「名古屋野球倶楽部(名古屋金鯱軍)」が誕生。キンシャチ軍にあらず、キンコ軍と読む。前後して、東京セネタース、阪急、大東京。以上6チームがすべて、12月から2月の間に誕生、巨人を含めて国内プロ全7チームとなった。そうしてこの2月、日本職業野球連盟が発足する。

1936(昭和11)年2月5日、創立総会。会場はまたしても丸の内・日本工業倶楽部であった。ちなみに三週間後の2月26日には、かの有名な二・二六事件が起きている。 これもよく知らんけど、「皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデター。国家改造を目指して首相官邸などを襲撃、内大臣齋藤實、大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎、首相秘書官松尾傳蔵を射殺。東京麹町区永田町一帯を占拠、3日語に無血鎮定」というような事件だ。そんなことは知らぬげに、連盟参加チームは

東京巨人(現読売ジャイアンツ)
大阪タイガース(現阪神タイガース)
大阪阪急野球協会(阪急軍、のちにオリックスブルーウェーブ)
大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍、現中日ドラゴンズ)
大日本野球連盟東京倶楽部(大東京軍、翌年ライオン軍、のちに太陽ロビンス→松竹ロビンス)
東京野球協会(東京セネタース、本拠地は東京杉並区、上井草球場)
名古屋野球倶楽部(名古屋金鯱軍、現在は消滅)

の七球団。セネタースというのは後に東急フライヤーズ、東映フライヤーズなどを経て、現北海道日本ハムファイターズ。この年「連盟結成記念全日本野球選手権」と「第1回日本職業野球リーグ戦」、さらに秋に「連盟結成記念全日本野球選手権」を行った。どういうリーグ戦だったのか、NPB公式サイトにはこういう表が載っている。

第1回日本職業野球リーグ戦甲子園大会鳴海大会宝塚大会
   ・東京巨人---------
   ・大阪タイガース3-21-11-1
   ・名古屋2-31-10-2
   ・阪急2-31-12-0
   ・大東京0140-20-2
   ・名古屋金鯱311------
   ・東京セネタース4-13-02-0

これ全体の優勝チームというのはなくて、甲子園大会、鳴海大会、宝塚大会それぞれで優勝チームを決めたらしい。東京セネタースが強かったんですね。しかし鳴海と宝塚では2戦ずつしかやってないが、それでリーグ戦を名乗っちゃうんだから素朴と言うか、のどかな時代だ。「東京巨人」が参加してないのは米国遠征のため。「連盟結成記念全日本野球選手権」と、秋の「第2回全日本野球選手権」はいずれも、東京大会、大阪大会、名古屋大会に分けて行われた。ジャイアンツ公式年表によればこの1936年は、

01.05 二出川延明、江ロ行雄らプロ初の移籍選手として金鯱軍に
02.05 丸の内・日本工業倶楽部で「日本職業野球連盟」創立総会
02.09 日本最初の職業野球団同士の試合、巨人3対10で金鯱に敗れる
02.14 第2回アメリカ遠征、秩父丸で横浜を出港
04.29 第1回日本職業野球リーグ戦(甲子園球場)開幕
07.01 連盟結成記念全日本野球選手権試合が戸塚、甲子園、山本球場でスタート
07.03 大東京軍に10対1で勝ち、公式戦初白星。勝利投手に畑福俊英
09.05 群馬県館林の茂林寺の分福球場でキャンプ
09.25 秋の第1次大阪リーグ(甲子園球場)のタイガース戦で沢村栄治がプロ初のノーヒットノーラン

という感じらしい。翌1937(昭和12)年7月、盧溝橋事件を発端に日中戦争勃発。さすがにそろそろ野球どころじゃなさそうだが、実際はどうだったんだろうか。連盟創立2年目以降のリーグ戦の、単純に試合数だけ書いておく。
1937:春季56試合/秋季49試合
1938:春季35試合/秋季40試合
1939:96試合。秋、第二次世界大戦開始
1940:104試合
1941:84-87試合。12月、真珠湾攻撃。日米開戦
1942:105試合
1943:84試合
1945:休止。8月、降伏
・・・というかんじ。

1937(昭和12)年は後楽園スタヂアムができた年でもある。

押川清、河野安通志のヤスキヨコンビは名古屋軍を去り、イーグルスという球団を東京に創設する。このとき我が名古屋軍から大量の主力を引き抜き(或いは主力が押川、河野の後を追い)、名古屋軍は長きに渡って大幅に弱体化したという。しかし赦そう。このイーグルスは十年持たずに消滅したのだから。「球場と所属チームは一体たるべし」というのが協会軍設立から押川、河野の一貫した理念であって、小石川砲兵工厰跡地に着目、金は奔走して金持ち連中を口説き落とし、後楽園スタヂアムが完成した。しかしその金持ち連中の人脈に正力松太郎もいて、結局後楽園は巨人の第一ホームグラウンド、イーグルスは第二ということになった。ともかく1937年にはこうして「イーグルス(後楽園野球クラブ)」が連盟に加入、これで連盟は8球団体制になった。

1938(昭和13)年には関西の南海鉄道(のちの南海電鉄)によって南海野球株式会社(南海軍)が創設されて連盟に加入。翌年中モズ球場を完成させて本拠地に。こちらはのちに大阪球場を本居とする名門・南海ホークス、さらにのちにダイエーに買収されて福岡へ移転、現ソフトバンクホークスである。この年川上哲治が巨人軍に入団。支度金三百円、月給百十円。南海の条件が月給百五十円だったと知り、後に

しまった、と思った。(中略)プロ野球の将来性は海のものとも山のものともまったくわからない。世間も、野球を商売にするなんてロクなヤツじゃない、と好奇の目でしか見てくれない。巨人に入ったのは兵隊に行くまでの腰かけのつもりだった。どうせ金のために行くんだから条件のいいところへ行くに決まっている。ジャイアンツでなければ、なんていう考えはまったくなかった。だから南海から話があったときには、ほんとうに巨人入りを後悔した。

と書いている(巨怪伝)。球聖川上はジャイアンツ・愛の塊かと思っていたが、けっこう醒めてたようだ。今(2006年)では野球選手も社会的に堂々と認知されて結構なことだが、今なら野球選手がこんなあけすけな発言したら袋叩きに合いそうな気もし、その意味ではこのおおらかさは羨ましい。70年前に比べて世の中は良くなってるのだろうか悪くなってるのだろうか、よくわからない。川上のポジションはピッチャー。吉原正喜、千葉茂らと「花の13年組」と呼ばれた。川上は1939シーズンの開幕投手で、「バッティングの方を買われ登板がないときには一塁手として出場した。「投手で4番」の先発出場を3回記録している」とWikipediaにある。

1939(昭和14)年、日本職業野球連盟は日本野球連盟と改称。同年7月ノモンハン事件。同年9月にはドイツ軍がポーランドに侵攻し、いわゆる第二次世界大戦が始まる。

part 03/8/world war II

須田博の憂鬱

1940(昭和15)年は皇紀2600年に当たった。皇紀というのは明治政府が発明した紀年法で、神武天皇の即位を元年とし、大平洋戦争降伏まではふつうに使われてたらしい。例えば現在(2005年)の北朝鮮で「将軍様の生誕○十周年」とかを迎えればナショナリズムが勇ましく盛り上がるわけだが、対中戦争が泥沼化する中で皇紀2600年というキリ番を迎えた皇国ニッポンでも、相撲柔道剣道ナドハ奨励スベシ、野球ナンゾハ敵性遊技ナリ、みたいな雰囲気で、野球の肩身ははなはだ狭かった。こうした時局に対応すべく、野球連盟は野球の「日本語化」に踏み切る。

『ライオンミュージアム』の「第四展示室」には、「プレーボールは『試合始め』、タイムは『停止』、ストライクは『よし』、ボールは『ダメ』」とある。『私を野球に連れてって!』の「The OldTimer's Day」には、ストライクは「よし一本」、ボールは単に「ひとつ、ふたつ」とコール、三振したら「それまで」とコール、塁審はセーフを「よし!」、アウトは「ひけ!」、ファールは「ダメ!」とある。『87才のホームページ』によると、スコアボードの表記はストライクが「振」、ボールが「球」、アウトが「無為」、「ユニフォームも戦時色そのままに兵隊のカーキ色にかわり、選手たちも続々と戦地にかりだされていった」、ということです。カタカナが忌避されただけではなく、「選手」は「戦士」と勇ましく言い代えられた。一平カントクによると、軍部は試合内容にまで干渉したらしい。

1940(昭和15)年、大阪タイガースは阪神、イーグルスは黒鷲軍、セネタースは翼軍と改称。

1941(昭和16)年、翼軍と金鯱軍が合併し、大洋軍となる。ライオンは朝日軍と改称。ライオンというのは「おはようからおやすみまで暮らしを見つめる」ライオン、当時は「ライオン歯磨本舗(株)小林商店」。大東京軍のスポンサーだった。「当時、野球といえば東京六大学野球をはじめとする学生野球が圧倒的な人気を誇っていましたから、職業野球団の経営は苦しかったようです」と、ライオンのサイトに書いてある。経営の苦しい大東京軍は支援先を探す一方、もっと強そうな名前にしようぜ、という意見もあり、大阪にタイガースがあるんだからライオンはどうか、という話になった。そこで、おおそうじゃ、そんなら名前はライオンにして、いっそライオン歯磨本舗さんに支援を頼んでみてはどうか、となったとか。しかしこの「日本語化」でライオンというカタカナがチーム名に使えなくなり、かと言ってライオンがオーナーじゃないんだから「小林商店軍」と改称するわけにもいかず、それでスポンサーを降りた。

この年、巨人軍はユニフォームの文字を「GIANTS」から「巨」一字に変更。金鯱軍は主力の軍隊招集が相次ぎ、翼軍(元セネタース)と合併して大洋軍となる(この「大洋軍」は、太洋ホエールズ→横浜ベイスターズとは関係ない。「タイ」の字も違うみたい)。金鯱軍消滅以後は名古屋軍(現中日ドラゴンズ)が名古屋で唯一のプロ球団に。巨人軍のエース、ヴィクトル・スタルヒンは、登録名を須田博(スダ・ヒロシ)に変更させられた。ひでー時代だ。しかし時代は変わったのだろうか。天才ユーリ・アルバチャコフに無理矢理「ユーリ海老原」なんて名乗らせた例は、ごく最近なんだが。「スタルヒン」と「スダヒロシ」には一応、音を似せようとする努力が感じられるが、「アルバチャコフ」と海老原にはもちろん何の共通点もない。そして「エビ」はロシア語で女性器を意味するらしい。関係ないか。

12月8日、真珠湾攻撃。日米開戦。

1942(昭和17)年、黒鷲軍は大和軍と改称。

1943(昭和18)年、アメリカでは「全米女子プロ野球リーグ」発足(1954年まで存続)。映画「プリティ・リーグ」のモデルとなる。日本では大洋軍が西鉄と改称。12月、西鉄解散。大和軍解散。

1944(昭和19)年、名古屋軍は産業軍と改称。南海は近畿日本と改称。11月、日本プロ野球報国会が一時休止声明。ついに来季プロ野球興業は中止と決まった。この頃には出征戦死その他で、試合が組めるだけの選手が残っていなかった。戦中最後の試合は、「日本野球総進軍優勝野球大会」と名付けられた。12月2日、陸軍伍長沢村栄治戦死。このころより、長距離爆撃機ボーイング29スーパーフォートレス、通称B29による本土空襲が活発化。朝日新聞社発行の「週間少国民」ではB29のあだ名を子供達から募集、「ビイ公」というあだ名を選定した、と紙面で伝えた。んだそうだ。

part 03/9/potsdam declaration

野球好き

1945(昭和20)年3月10日、東京大空襲。12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19日名古屋、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京、15日東京・横浜・川崎、5月24日東京、25日東京への夜間空襲。東京の市街地は50%以上が焼失した。8月6日広島原爆投下。9日長崎原爆投下。8月14日ポツダム宣言受諾。8月15日、ギョクイン放送。そして早くもこの年11月23日、神宮球場で職業野球東西対抗試合が行われた。なんつー野球好き。翌年にはペナントレース再開。

戦時下のプロ野球について、『BALL PARK』/「野球場誌/後楽園球場」の記述が素晴らしくわかりやすい。

1943年には野球用語からカタカナが追放された。ユニフォームは白または国防色に限定され、背番号や球団マークは廃止となり、帽子は戦闘帽となった。試合前に手榴弾投げ競争が行われることもあった。プロ野球興業は1944年まで続いたが、同年秋に中止となった。

後楽園球場には戦時中、高射砲陣地が設置された。金属回収の指令に基づいてスタンドの金属製取付椅子18,000個が供出され、2階のスタンドには機関砲のほか電波探知機や観測機などが据えつけられた。スタンド下には兵隊の宿舎となり、グラウンドにはトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、キュウリの畑となった。1945年4月14日、アメリカ軍の空襲により、スコアボードが焼け落ちた。

戦争が終わると、後楽園球場は日本軍の兵器の集積場にされ、進駐軍に引き渡すために各地から機関銃や高射砲などが集められた。連合軍最高司令部(GHQ)は進駐軍兵士への娯楽の提供のため、1945年11月14日に後楽園球場を接収した。明治神宮野球場や甲子園球場も接収された。接収が解かれたのは1946年2月6日のことである。GHQが野球を奨励したこともあり、戦後すぐにプロ野球が復興し、野球ブームが訪れた。

この野球ブームが日本野球連盟への加盟申込があいつぎ、ついにセパ両リーグ分立を招くことになる。1950年は15球団あったのだが、在京5球団(読売・東急・大映・毎日・国鉄)が全て後楽園球場を本拠地とした。関東には後楽園球場の他にプロ野球に適する野球場がなかったのである。1950年にはプロ野球の本拠地球場ではじめてナイター設備が設けられた。

人は飢えと焼け野原の只中でも、敢えて野球を観るのである。