IIIIIINDEX

04:戦後有為転変篇

1945-2003
part 04/1/postwar reconstruction

ペナントレース再開

1945(昭和20)年、終戦。9月2日、降伏文書に署名。11月6日、巨人、名古屋、阪神、阪急、南海、朝日の六球団代表が集まり、日本野球連盟復活宣言。GHQによる球場の接収が続く中、一試合限りの条件で神宮球場の使用許可をとり、11月23日、東西対抗戦を開催した。さらにセネタースが加盟。これは戦前に東京セネタース→翼軍→大洋軍と変遷したチームが、改めて新チームとして結成されたもの。12月12日、読売争議のさなか、正力松太郎は連合軍総司令部(GHQ)により、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監される(ちなみに彼は戦時中「大政翼賛会宣伝本部顧問」「翼賛政治会総務」「情報局参与」などの肩書きを持ち、広島に原爆が投下された後も、強硬に本土決戦論を唱えた。ナチスドイツを熱狂的に支持し、ヒットラーに川端龍子の壁掛を贈った、とも巨怪伝にある)。以後読売は(簡単に言うと)反正力派が支配する。

第二次大戦で戦死したメジャーリーガーは、比較的無名な選手二人だけ、だそうだ。無名なら死んでもいいという話ではない。アメリカでは野球選手のステータスが高く、スター選手は大切に扱われたという話だ。それだけ余裕があったということでもある。一方日本軍にそんな余裕はさらさらなく、プロリーグ創成期を支えた名選手がずいぶん死んだ。余裕もないし、そもそも職業野球選手なんかより、大学生の方が幹部候補として大切にされた。前線配属を回避するために夜間大学の籍を取る野球選手も多かった。沢村英治も大学に行ってれば手榴弾投げることもなかったかも知れない。(ちなみに、讀賣が強引なことをしなければ沢村は慶應に行ってたかと言えばそれは疑問だ、慶應に合格する学力はなかったんじゃないか、早稲田の方が入試に融通が効いたので、たぶん早稲田に行ったんじゃなかろうか、と『沢村英治記念館』にある)

1946年3月27日、ペナントレース再開。

「食糧もない、こんな状態でほんとにプロ野球なんかできるのか、第一客が来るもんか」、と反問する進駐軍側に対し、鈴木惣太郎は「食糧がないなら、選手は午前中百姓をやって試合は午後にやる。いま虚脱状態の日本国民に前向きの勇気を与えるのはプロ野球しかない。日本人は三度のメシより野球が好きだ」と言って後楽園球場の接収解除を訴えた、交渉相手のウィルソンは鈴木の熱弁に感動の面持ちとなった。と「巨怪伝」に、見てきたように書いてある。近畿日本は近畿グレートリングと改称。朝日軍は太平洋パシフィックと改称。金星ゴールドスターが加盟。この年は近畿グレートリング(南海)、東京巨人、阪神、阪急、セネタース、ゴールドスター、中部日本(中日)、パシフィック(後に大洋ホエールズと合併)の8球団で各105試合を戦い、近畿グレートリングが優勝した。「ゴールドスター」は後に高橋ユニオンズと合併、さらに毎日オリオンズと合併。

同年、都市対抗野球も再開。夏の甲子園も再開。11月、日本国憲法公布。1947年、春のセンバツ再開。GHQは軍国主義復活防止という観点から剣道や柔道を規制し、野球は奨励された。戦中の軍部が剣道や柔道を奨励して野球は肩身が狭かった、という話だけ知ると、ほんっと日本人はバカだな、と思わされるが、GHQのやることも別に違いはない。そういうもんかも知れない。

大日本野球連盟名古屋協会、通称名古屋軍はその名を「産業軍」「中部日本」と変遷し、1947(昭22)年、中日ドラゴンズに改称。何故ドラゴンか。当時の主力スポンサー中部日本新聞(現中日新聞)の社長、杉山虎之助は、はじめ自分の名前の「虎」をとって「タイガース」にしたいと言い出した。しかしそれは既に大阪にある。仕方無い。そんじゃあオレは辰年生まれだから、ドラゴンズでいいか。竜虎相打つってことで。ということになったらしい。『僕悪』というサイトの2004年12月5日の日記に書いてあった。そのソースは伊集院光の【スポーツ研究所】とのこと。同番組によれば阪神は、甲子園一帯が工業地帯だったので、米国で工業地帯と言えばデトロイト、それでデトロイト・タイガースにならってタイガース、だそうだ。この年阪神は大阪タイガースに名称を戻す。ここらへん、多くを「YOKOHAMA BayStars & Baseball」の「日本プロ野球年表」で学んだが、私の理解が正確かどうか、いまいち自信がない。

1947(昭22)年、宇高勲という人が、「祖国再建は野球から」との志で、日本野球連盟とはまったく独立に「国民リーグ National Baseball League」というものを始めたらしい。アメリカにはリーグがふたつある、あれが理想だ、だから新リーグを作るのだ、と、2リーグ制を先取りする壮大な理想があったらしい。「宇高レッドソックス」「結城ブレーブス」「大塚アスレチックス」「唐崎クラウンズ」の4チームがあったらしい。「宇高レッドソックス」というのは宇高勲自身のチーム。

国民野球連盟は日本野球連盟との連携による2大リーグ制を図ろうとしたものの、日本野球連盟側はこの新規参入組について一切関与しないことを明言した。国民野球側は川上哲治、大下弘といったプロ野球のスター選手の獲得を計画するなど知名度アップを図ろうとしたが日本野球連盟の圧力で結局実現しなかった。試合もフランチャイズ球場を持たぬ地方巡業での興行が主体だったので固定したファン層の獲得ができず、運営面でも大口のスポンサーを確保できなかった(中略)、わずか1年でリーグは解散した。(Wikipedia)

セネタースは経済的な理由から、東急フライヤーズに。これは現、北海道日本ハムファイターズ。太平洋パシフィックは太陽ロビンスと改称。阪急は阪急ブレーブスとなる。近畿グレートリングは南海ホークスと改称。

読売の「プロ契約第一号」選手である三原脩は、戦争中は南方戦線へ配属され主にビルマなどを戦場に地獄の転戦。復員後はかつて勤務していた報知新聞に復帰しようとしたが、報知新聞が読売新聞に合併されていたため、結局読売で記者をやっていた。その三原がこの年、読売ジャイアンツの総監督に就任し、同年シーズン中盤から監督として指揮を執る。

同年、正力松太郎は不起訴となり、巣鴨拘置所を釈放された。62歳。したがって正力松太郎を「A級戦犯だった」と書くのは微妙に不正確だ。事実は「A級戦犯容疑で収監されてたことがある」か「A級戦犯に指定されたが不起訴となった」か「A級戦犯としていったん起訴されたが無罪放免となった」か、なんかそんな感じ。釈放されたが、しかし公職追放の身分は昭和26年まで解けなかった。「公職追放」について知りたい人は、「公職追放とは」とかでググってください。

1948(昭23)年、太陽ロビンスは大陽ロビンスに改称。大映球団発足、連盟に加入申し込み。大映球団と東急フライヤーズが合併、急映フライヤーズに。金星が国民リーグ大塚と合併、国民リーグ解散。大映が急映フライヤーズから撤退、東急フライヤーズに戻る。

1949(昭24)年、急映から撤退した大映が金星スターズと合併、大映スターズに。

近畿日本鉄道が近鉄パールスを結成。近鉄にとっては、南海鉄道(現南海電鉄)合併当時の1944年-1947年(近畿日本→近畿グレートリング、現福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。とWikipediaにある。なんだかわかりにくいが、戦時中に関西の多くの鉄道会社(南海を含む)が合併してできたのが近畿日本鉄道、ということらしい。戦時企業統合政策というのがあって、新聞社にせよ鉄道会社にせよ、戦争中にはいろんな会社が合併させられた。戦後、旧南海鉄道の路線は別の会社に譲渡され、つまりそういうかたちで南海電気鉄道は再独立した。

それで近鉄パールスだが、「11月26日にパ・リーグに加盟。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者を中心に編成したが、選手層が薄く長らく下位に低迷」とのこと。ちなみに何故パールスかというと、真珠が伊勢志摩の特産品で、伊勢志摩が近鉄沿線だから。

この年はさらに西日本パイレーツ、毎日オリオンズ、広島カープ、大洋ホエールズ(本拠地は下関球場)、西鉄クリッパーズが誕生し、二リーグに分裂した年だ。大陽ロビンスは松竹に身売り、松竹ロビンスに。

1950年、日本女子野球連盟結成。「大阪ダイヤモンド」「ロマンス・ブルーバード」など、4球団。最盛期には全国25チームまで拡大したが、1952年に社会人野球へと形態を移行、日本の女子プロ野球は2年しか続かなかった。社会人女子野球はその後約20年間続き、1971年に自然消滅した。

part 04/2/commissioner

初代コミッショナー正力松太郎

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part 04/3/disassociation

二リーグ分裂

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2004年の球界再編問題経緯を見て、その前はどうだったんだ、という興味で歴史を遡り始めた、ということは明治篇の巻頭に書いた通りです。その観点からすると、「正力松太郎初代コミッショナー就任」→「二リーグ分裂」のあたりこそがまさに一番だいじなところと思われるのですが、いまだアタマの整理がつきません。興味ある方は、とりあえずこれらを読んでください。

・西日本パイレーツの興亡
・1949年のプロ野球再編問題(Wikipedia)
・企業と球団の興亡史
・1リーグ制になる?〜プロ野球の危機〜

いずれ私も私なりにまとめるつもりですが、それはたぶんこれらの内容を要約したものになるので、これらを読んだ人にはもう必要ない、とも言えます。

part 04/4/Tokyo Olympic

東京オリンピック

以下、特にチーム名の変遷に関しては多くの部分を、「YOKOHAMA BayStars & Baseball」の「日本プロ野球年表」から学びました。技術関係についてはソニーイーエムシーエス(株)工業年表が主なソースです。
1950(昭和25)年、国鉄スワローズ誕生。電車は座れた方がいいから座ろーズ、という話も聞いたことあるけど、後付けのギャグなのかどうか、不明。水原茂がジャイアンツの監督に就任。総監督三原脩は居場所を失う。9月、大阪球場完成、南海ホークスの本拠地に。1951年、中日ドラゴンズが名鉄の資本参加によって名古屋ドラゴンズに。西鉄クリッパーズ(福岡)と西日本パイレーツ(福岡)が合併、西鉄ライオンズに。三原脩、新生西鉄ライオンズの初代監督に就任。1952年4月、川崎球場完成。1953年、大洋と松竹が合併、大洋松竹ロビンスに。1954年、名古屋ドラゴンズが前年末の名鉄の経営撤退により中日新聞社に経営が一本化され、中日ドラゴンズに。東急フライヤーズが東映フライヤーズに。東京通信工業(後のソニー)、日本初のテープレコーダーを発売。
1951(昭和26)年、NHK、初のテレビ実況中継の実験実施。後楽園球場から日本橋三越へプロ野球を中継。

この年8月、正力松太郎、小林一三らの公職追放処分が解除。正力このとき62歳。公職追放が解けようが解けまいが62歳ならもう隠居すりゃいいじゃないか、と、私のようなひ弱な凡人は考えるし、実際小林一三は「もう私の出る幕はない」と語り、同時に追放解除された戦前の大物たちも基本的に「余生を静かに送りたい」と枯れたコメントを残した。しかしひとり正力だけは大威張りで「また新聞その他の文化事業に尽力したい、特にテレヴィジョンの開始実現には大いに努力したい」と満々たる決意を語ったという(巨怪伝)。「正力は虎視眈々と読売新聞への復権をうかがい、その一方で、戦後にかける大事業の野望をたぎらせていた。その切り札となったのが、プロ野球の復活だった(巨怪伝)」。非力な私はちょっと憧れますよこういう話。

正力はこの後も生涯、読売新聞社の役員に復帰することはなかったが、しかし三割の株式を保有し、死ぬまで読売の事実上の絶対権力者であり続けた。昭和20年の時点では読売は反正力派が支配し、なのに26年にはもう正力が権力を握ったらしい。どうしてそういうことになったのかも、そういうことになったにもかかわらずどうして表向き読売に復帰しなかったのかも、上の
「+++++++++++++(工事中)+++++++++++++」の部分が埋まれば明らかになる、かも知れない。今のところ私のアタマでわかるのは、どうも株が決め手らしい、というていど。

正力先生、社長も会長もマズイなら「社主」と名乗ってはいかがですか、と知恵をつけられ、おお、それはいい、と、以後死ぬまで読売の「社主」ということになった。「社主」の定義はなんなのか、知りません。なんだかわからないのに偉そうな感じがするからイイんだろう。漫画『美味しんぼ』にも「東西新聞の大原社主」というのが登場するが、新聞と「社主」には何かとくべつな関係があるのだろうか。ちなみに読売の社長は1951年から、正力が死ぬまでの約20年の長きにわたって空位が続いた。なぜなのか、今のところいまいち理解できない。一生できないかも。そう言えば渡辺恒夫も2004年後半から、「巨人軍の実質的最高権力者でありながらオーナーを名乗らない」という時期があったが、大正力を真似たのかも知れない。

1952(昭和27)年、本田技研工業、原付自転車「カブ」発売。
1953(昭和28)年2月1日、NHKがテレビ放送開始。8月28日、NTV 日本テレビ放送網、テレビ放送開始。同年、力道山が日本プロレス協会を設立。街頭テレビで全国に熱狂を呼ぶ。松下電器産業、冷蔵庫を発売。
1954(昭和29)年、高橋ユニオンズ結成、パリーグ加盟。

1953年当時、パ・リーグは7チームで構成されていたが、1チームの端数が生じるため全チームがそろって公式戦を開催できないでいた。そこで、勝率3割5分を切ったチームは強制的に解散という罰則を設けたものの、それを回避しようと各チームが必死で戦ったせいか罰則適用チームはなかった。その為1954年のシーズン開幕前に高橋をスポンサーに「株式会社高橋球団」を設立。急造だったためパ・リーグ各チームから若手を供出するよう申し合わせがされたが、実際に集められたのは酒豪で扱いに手を焼く選手や戦力外の選手が大半だった。こうして高橋ユニオンズは結成された。(Wikipedia)

本拠地は川崎球場。翌年トンボ鉛筆と業務提携しトンボユニオンズと改称。しかし1年で提携解消して再び高橋ユニオンズに。資金繰りの悪化から57年大映スターズと合併、大映ユニオンズに 。さらに同年毎日オリオンズと合併、大毎オリオンズになった。かつての「大毎野球団」の大毎は「大阪毎日」のことだが、大毎オリオンズの大毎は「大映プラス毎日」のこと。その後東京オリオンズを経てロッテオリオンズ、現千葉ロッテマリーンズ。ちなみに「新規球団が結成されて連盟に加入する」という例が、高橋ユニオンズの次に実現したのは50年以上後、2005年シーズンからの、楽天ゴールデンイーグルスである。
この年、大洋松竹ロビンスが前年末の松竹の経営撤退により、大洋ホエールズに。本拠地を横浜に移転。イースタンリーグ発足。ウエスタンリーグ発足。

1955(昭和30)年、馬場正平(のちのジャイアント馬場)読売巨人軍に入団。東芝、日本初の電気釜を発売。電気釜って冷蔵庫より後なのか。あ、その前にガス釜があるのか。
1956(昭和31)年、稲尾和久、中西太を擁し三原脩率いる西鉄ライオンズがこの年からパ・リーグ三連覇。セは水原円裕監督率いる巨人軍が三連覇。そして日本シリーズは西鉄三連覇、「野武士」西鉄ライオンズの偉大なる黄金期を成す。甲子園球場にナイター設備完成。
1957(昭和32)年、広島市民球場完成。ソヴィエト連邦が世界初の人工衛星「スプートニク1号」打ち上げ成功。NHK、FMラジオ実験放送開始。
1958(昭和33)年、長嶋茂雄、ジャイアンツ入団。東京通信工業、社名をソニー株式会社と変更。
私が生まれて初めて後楽園球場で野球観戦したのは昭和33年の開幕戦であった。つまり、長嶋さんのデビュー戦。金田さんのワンマンショーでもあったが、巨人先発の藤田さんもよく投げた。金田さんと藤田さんの投手戦であった。あの試合は左腕金田さんお凄さと長嶋四打席四三振と藤田の好投、この三つが揃った素晴らしい試合であった。(ねじめ正一)
1959(昭和34)年、王貞治、ジャイアンツ入団。弱小球団近鉄パールスは千葉茂を監督に招き、チーム名ももうちょっと強そうなヤツに変えようということになって公募したところ、1番多かったのが「バッファローズ」だった。これは千葉茂が現役時代「猛牛」と呼ばれた選手だったため。しかし球団幹部が「表記が長すぎる」と言うので2文字減らして「近鉄バファロー (Buffalo)」と改称。62年、千葉辞任後に「これからは監督だけが猛牛になるのではなく、チーム全員が猛牛にならなければならない」という理由で複数形のバファローズ (Buffaloes) と改称(Wikipediaより)。東芝、日本初の電子レンジを開発。9月、伊勢湾台風。
1960(昭和35)年、池田勇人内閣「国民所得倍増計画」を発表。馬場正平、野球を断念して日本プロレスに入団、力道山に弟子入り。
1961(昭和36)年、大阪タイガースが阪神タイガースに改称。大鵬、柏戸がともに横綱昇進。大鵬ってロシア人とのハーフだったのね。このたび初めて知った。
1962(昭和37)年、東映フライヤーズが本拠地を駒沢から神宮へ移転。大毎オリオンズの本拠地として荒川区南千住に「下町の雰囲気いっぱい」東京スタジアム完成。大毎は地域密着型を目指し、1964年には東京オリオンズと改称。1969年、ロッテと業務提携してロッテオリオンズに改称。1971年、ロッテに経営譲渡。しかし観客数は低迷し、1973年、オリオンズは東京スタジアムを離れ、県営宮城球場を準本拠地として、川崎、神宮、後楽園を転々とすることになる。当時株式会社東京スタジアムの会長は国際興業社主・小佐野賢治氏。スタジアムは結局1977年に東京都に売り渡され、解体。2005年現在は、南千住野球場、荒川総合スポーツセンター、南千住警察署があるらしい。
1963(昭和38)年、力道山死す。1964(昭和39)年10月1日、東海道新幹線開業。10月10日、東京オリンピック開会式。『ひょっこりひょうたん島』放送開始。国鉄スワローズが本拠地を神宮球場へ移転。翌年サンケイスワローズに。さらに翌年、サンケイアトムズに。1970年にはヤクルトアトムズに。

part 04/5/APOLLO11

V9/APOLLO11/EXPO'70/RED ARMY

1965-73(昭和40-48)長嶋茂雄、王貞治を擁し川上哲治率いる読売ジャイアンツが日本シリーズ九連覇。
1966(昭和41)年、ビートルズ日本公演。
1967(昭和42)年、広島カープが広島東洋カープに。
1968(昭和43)年、アニメ「巨人の星」放送開始。12月10日、三億円事件
1969(昭和44)年、アポロ11号月面着陸。東大安田講堂闘争。正力松太郎死す。野球界ではこの年、「グローバルリーグ」というものができたらしい。全然知らなかったけど、Wikipediaに書いてある。

グローバルリーグ:1969年に1年だけ存在した野球リーグ戦。アメリカのプロモータがメジャーリーグに匹敵する第3のリーグ戦を世界規模で作ろうと呼びかけて設立されたもので、日本の東京ドラゴンズを始めアメリカ(アラバマ・ワイルドキャッツ、ニュージャージー・タイタンズ)、ドミニカ共和国(ドミニカ・シャークス)、ベネズエラ(ベネズエラ・オイラーズ)、プエルトリコ(プエルトリコ・サンファンズ)の5カ国6チームが参加してホーム&アウェーのリーグ戦を開催。日本チームは森徹(元中日ドラゴンズ)を監督に元プロ野球経験者を中心に編成した。開幕当初は観客動員もまずまずの状態だったが急激にそれが減少。財政難からプエルトリコとドミニカ共和国がわずか開幕2ヶ月で撤退したり、他チームも相次いで運営難から旅費が底を付くという厳しい状況に立たされ、結局リーグ戦としては1年間で打ち切りとなった。
1970(昭和45)年「EXPO70」大阪万博。よど号ハイジャック事件。
1969年から70年にかけて福岡・西鉄ライオンズを舞台に、かの有名な黒い霧事件。これで一気に主力選手を失い、1970年、2年目にして11勝を挙げた東尾修の活躍にもかかわらず西鉄は低迷。かつての最強軍団「野武士」ライオンズは長い低迷期に入る。ちなみに70年というと、中日谷沢健一、南海門田博光のルーキーイヤー。1972年、太平洋クラブライオンズに。76年にはクラウンライターライオンズに。78年、国土計画へ経営譲渡。
1972(昭和47)年、あさま山荘事件。沖縄返還。田中角栄首相就任。「日本列島改造論」発表。
part 04/6/1973

球界再編問題 (1973年)

1973(昭和48)年/2月:東映フライヤーズが日拓ホームフライヤーズに。
プロ野球再編問題と言えばふつう、みっつのものを指すらしい。はじめのは上に書いた2リーグ分裂。みっつめは近鉄撤退/1リーグ構想/ライブドア登場/選手会ストライキ/楽天誕生、という2004年の一連の事件。で、もうひとつの「球界再編問題」は、1973年のオフに起きた。とWikipediaに書いてある。以下、この章は全面的にWikipediaの引用。


▼当時のパリーグ

1970年代初頭、パリーグは厳しい状況におかれていた。読売ジャイアンツの黄金時代や黒い霧事件の影響でパリーグの観客数は減少し、セリーグに大きく劣っていた。1972年の1試合当たりの観客数はセリーグは1試合当たり約15900人を集めていたが、パリーグは約6400人とセリーグの約40%しか集められなかった。そんな中、1972年オフに西鉄ライオンズが福岡野球倶楽部に身売りして太平洋クラブライオンズに、東映フライヤーズも日拓ホームに身売りして日拓ホームフライヤーズに生まれ変わった。一方でロッテオリオンズは1971年11月の大映の倒産の影響を受けてホームグラウンドの東京スタジアムが1972年限りで閉鎖に追い込まれ、1973年からは各地を転々とせざるを得ない状況になってしまった。

▼1973年のシーズン

折りしも、1973年からは人気回復策として前後期制を導入し、半期ごとの優勝チームが異なる場合は5戦3勝制のプレーオフ制度という新しい制度を導入することとなった。前期は太平洋がまず開幕5連勝で首位に立てば、開幕4連敗を喫したロッテが6月半ばまで首位に立ち、その後は南海がのし上がってきて南海が前期を終えた時点で2位、ロッテが1.5ゲーム差につけており、最後の3連戦で全勝すれば逆転前期優勝という状況であった。2戦目に負け前期優勝は南海となったが、前期は1試合当たり約14600人を集めた。しかし後期は阪急が独走してしまい、1試合あたりの観客数は約8100人に減ってしまった。それでも年間通算では1試合あたり10000人以上も集めたが、セリーグが大混戦になったことで「コップの中の嵐」に過ぎなかったのである。しかも、プレーオフは「死んだふり」の南海が優勝するも平均入場者数は30000人にはいたらず、その南海もシリーズでは1勝4敗と敗れてしまう。こうして、1973年もパリーグはセリーグより不遇な環境におかれたのである。

▼合併計画

日拓の西村昭孝オーナーはこの現状を見て「パリーグに将来性はない」と判断し、ロッテとの合併および1リーグへの移行話を持ち上げた。日拓はこの年7色のユニフォームを採用して話題を読んだが、前後期通算で5位と低迷した。ロッテも重光武雄オーナーが経営に興味がないと見られたことや関東圏で定常的に試合をしたいと言うことで、両球団は合併には相思相愛であり、調印も時間の問題であった。
その一方、新たな合併も模索された。関西のスポーツ紙では南海と近鉄の合併、10球団1リーグ制への移行を先走って報道した。日拓とロッテの合併が時間の問題となっていることもあり、パリーグは存亡の危機に立たされたのである。

▼合併破談、そして終息

しかし、ロッテのオーナーは合併を否定し、これで合併の可能性は後退した。その後合併は破談となり日拓も日本ハムに身売りし、今回の騒動は終息した。こうして1リーグ制は回避されて1974年を迎えることになるが、パリーグは指名打者制度導入など新し物を次々に取り入れざるを得ないなど、苦悩は続いた。本格的に人気が高まるのは1980年代後半からである。 そして約30年たった2004年にはまたもプロ野球再編問題が勃発するのである。

外部リンク:激動のパ・リーグ S48年(野球評論家・堀内一三)(引用終わり)

part 04/7/nabetsune

Nabetsuneの降臨

1973(昭和48)年11月、日拓ホームフライヤーズは日本ハムファイターズに。ヤクルトアトムズがヤクルトスワローズに改称。
1975(昭和50)年、ベトナム戦争終結。
1976(昭和51)年、太平洋クラブライオンズ(福岡)はクラウンライターライオンズに。
1977(昭和52)年、大洋ホエールズは本拠地横浜移転を川崎市に通告。翌年横浜スタジアム完成、大洋は横浜大洋ホエールズに改称。ロッテオリオンズが本拠地を川崎球場へ。
1978(昭和53)年、クラウンライターライオンズ(福岡)は国土計画(西武鉄道グループ)へ経営譲渡、西武ライオンズに。
1979(昭和54)年、埼玉県所沢に西武ライオンズ球場完成。以後十年、福岡にプロ野球チーム不在の時代が訪れる。
1988(昭和63)年、南海ホークス(大阪)がダイエーに経営譲渡、福岡平和台球場へ移転、福岡ダイエーホークスに。阪急がオリエントリースに経営譲渡、オリックスブレーブスに。東京ドーム完成。
1989(昭和64)年1月、昭和天皇崩御。
1990(平成2)年11月、オリックスブレーブスは西宮からグリーンスタジアム神戸に移転、オリックスブルーウェーブに改称。
1991(平成3)年5月、渡辺恒雄氏、読売新聞社社長に就任。フリーエージェント制の導入を訴える。
1993(平成5)年3月、渡辺恒雄氏、ドラフト制廃止を主張。「却下されれば新リーグ」発足を示唆。
1993年7月、ロッテ・重光オーナー代行がオーナー会議で「12球団による1リーグ制」を提案 。
1993年9月、FA制とドラフトの逆指名制導入。
1994(平成6)01/18:オーナー懇談会でパ・リーグが1リーグ制を支持。
1995(平成7)年1月、野茂英雄メジャー行き希望を理由に近鉄を退団、2月ロサンジェルスドジャース入団。かなり派手な活躍をして、オールスター出場、全米野球記者協会新人賞獲得。1月17日、阪神・淡路大震災。
1996/12月:渡辺恒雄氏、巨人のオーナーに就任。
1997/3月:大阪ドーム完成、近鉄バファローズの本拠地に。同じく3月、ナゴヤドーム完成、中日ドラゴンズの本拠地に。1998年西武球場でドーム化工事開始。1998年シーズンは半ドーム状態で公式戦を消化、「西武ドーム」に改称。1999年完全ドーム化。1999年近鉄バファローズが球団名を大阪近鉄バファローズに改称。2000年3月、横浜ベイスターズ対千葉ロッテマリーンズのオープン戦を最後に川崎球場閉鎖。
2000(平成12)年11月:巨人・渡辺恒雄オーナー、契約更改交渉への代理人出席を巡り、「(巨人の選手が代理人を連れてきた場合)年俸を下げる」と発言。
同年オフ、新庄剛志がフリーエージェント権を行使してニューヨークメッツへ移籍。一方、鈴木一朗、通称イチローがポスティング制度を使ってシアトルマリナーズに移籍。ポスティングなんて言葉はこの時まで普通の野球ファンは知らなかった。新庄も知らなかったようで、「えっ、ナニ? ポスティングって。オレが日本人野手としては史上初の、唯一のメジャーリーガー、と思ってたのに」と発言した。ポスティング制度とは、1998年12月、日米選手協定改訂に伴って誕生した制度である。 2001年、イチローはかなり衝撃的な成績を残すが、新庄剛志もまた違う意味で素晴らしい衝撃を残した。
2003(平成15)年5月:ダイエーホークス売却問題。球団は売却否定。6月:日本ハム、2004年からの札幌移転を決定。8月、球団名を北海道日本ハムファイターズと発表。本拠地は札幌ドーム。