ペナントレース再開
1945(昭和20)年、終戦。9月2日、降伏文書に署名。11月6日、巨人、名古屋、阪神、阪急、南海、朝日の六球団代表が集まり、日本野球連盟復活宣言。GHQによる球場の接収が続く中、一試合限りの条件で神宮球場の使用許可をとり、11月23日、東西対抗戦を開催した。さらにセネタースが加盟。これは戦前に東京セネタース→翼軍→大洋軍と変遷したチームが、改めて新チームとして結成されたもの。12月12日、読売争議のさなか、正力松太郎は連合軍総司令部(GHQ)により、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監される(ちなみに彼は戦時中「大政翼賛会宣伝本部顧問」「翼賛政治会総務」「情報局参与」などの肩書きを持ち、広島に原爆が投下された後も、強硬に本土決戦論を唱えた。ナチスドイツを熱狂的に支持し、ヒットラーに川端龍子の壁掛を贈った、とも巨怪伝にある)。以後読売は(簡単に言うと)反正力派が支配する。
第二次大戦で戦死したメジャーリーガーは、比較的無名な選手二人だけ、だそうだ。無名なら死んでもいいという話ではない。アメリカでは野球選手のステータスが高く、スター選手は大切に扱われたという話だ。それだけ余裕があったということでもある。一方日本軍にそんな余裕はさらさらなく、プロリーグ創成期を支えた名選手がずいぶん死んだ。余裕もないし、そもそも職業野球選手なんかより、大学生の方が幹部候補として大切にされた。前線配属を回避するために夜間大学の籍を取る野球選手も多かった。沢村英治も大学に行ってれば手榴弾投げることもなかったかも知れない。(ちなみに、讀賣が強引なことをしなければ沢村は慶應に行ってたかと言えばそれは疑問だ、慶應に合格する学力はなかったんじゃないか、早稲田の方が入試に融通が効いたので、たぶん早稲田に行ったんじゃなかろうか、と『沢村英治記念館』にある)
1946年3月27日、ペナントレース再開。
「食糧もない、こんな状態でほんとにプロ野球なんかできるのか、第一客が来るもんか」、と反問する進駐軍側に対し、鈴木惣太郎は「食糧がないなら、選手は午前中百姓をやって試合は午後にやる。いま虚脱状態の日本国民に前向きの勇気を与えるのはプロ野球しかない。日本人は三度のメシより野球が好きだ」と言って後楽園球場の接収解除を訴えた、交渉相手のウィルソンは鈴木の熱弁に感動の面持ちとなった。と「巨怪伝」に、見てきたように書いてある。近畿日本は近畿グレートリングと改称。朝日軍は太平洋パシフィックと改称。金星ゴールドスターが加盟。この年は近畿グレートリング(南海)、東京巨人、阪神、阪急、セネタース、ゴールドスター、中部日本(中日)、パシフィック(後に大洋ホエールズと合併)の8球団で各105試合を戦い、近畿グレートリングが優勝した。「ゴールドスター」は後に高橋ユニオンズと合併、さらに毎日オリオンズと合併。
同年、都市対抗野球も再開。夏の甲子園も再開。11月、日本国憲法公布。1947年、春のセンバツ再開。GHQは軍国主義復活防止という観点から剣道や柔道を規制し、野球は奨励された。戦中の軍部が剣道や柔道を奨励して野球は肩身が狭かった、という話だけ知ると、ほんっと日本人はバカだな、と思わされるが、GHQのやることも別に違いはない。そういうもんかも知れない。
大日本野球連盟名古屋協会、通称名古屋軍はその名を「産業軍」「中部日本」と変遷し、1947(昭22)年、中日ドラゴンズに改称。何故ドラゴンか。当時の主力スポンサー中部日本新聞(現中日新聞)の社長、杉山虎之助は、はじめ自分の名前の「虎」をとって「タイガース」にしたいと言い出した。しかしそれは既に大阪にある。仕方無い。そんじゃあオレは辰年生まれだから、ドラゴンズでいいか。竜虎相打つってことで。ということになったらしい。『僕悪』というサイトの2004年12月5日の日記に書いてあった。そのソースは伊集院光の【スポーツ研究所】とのこと。同番組によれば阪神は、甲子園一帯が工業地帯だったので、米国で工業地帯と言えばデトロイト、それでデトロイト・タイガースにならってタイガース、だそうだ。この年阪神は大阪タイガースに名称を戻す。ここらへん、多くを「YOKOHAMA BayStars & Baseball」の「日本プロ野球年表」で学んだが、私の理解が正確かどうか、いまいち自信がない。
1947(昭22)年、宇高勲という人が、「祖国再建は野球から」との志で、日本野球連盟とはまったく独立に「国民リーグ National Baseball League」というものを始めたらしい。アメリカにはリーグがふたつある、あれが理想だ、だから新リーグを作るのだ、と、2リーグ制を先取りする壮大な理想があったらしい。「宇高レッドソックス」「結城ブレーブス」「大塚アスレチックス」「唐崎クラウンズ」の4チームがあったらしい。「宇高レッドソックス」というのは宇高勲自身のチーム。
国民野球連盟は日本野球連盟との連携による2大リーグ制を図ろうとしたものの、日本野球連盟側はこの新規参入組について一切関与しないことを明言した。国民野球側は川上哲治、大下弘といったプロ野球のスター選手の獲得を計画するなど知名度アップを図ろうとしたが日本野球連盟の圧力で結局実現しなかった。試合もフランチャイズ球場を持たぬ地方巡業での興行が主体だったので固定したファン層の獲得ができず、運営面でも大口のスポンサーを確保できなかった(中略)、わずか1年でリーグは解散した。(Wikipedia)
セネタースは経済的な理由から、東急フライヤーズに。これは現、北海道日本ハムファイターズ。太平洋パシフィックは太陽ロビンスと改称。阪急は阪急ブレーブスとなる。近畿グレートリングは南海ホークスと改称。
読売の「プロ契約第一号」選手である三原脩は、戦争中は南方戦線へ配属され主にビルマなどを戦場に地獄の転戦。復員後はかつて勤務していた報知新聞に復帰しようとしたが、報知新聞が読売新聞に合併されていたため、結局読売で記者をやっていた。その三原がこの年、読売ジャイアンツの総監督に就任し、同年シーズン中盤から監督として指揮を執る。
同年、正力松太郎は不起訴となり、巣鴨拘置所を釈放された。62歳。したがって正力松太郎を「A級戦犯だった」と書くのは微妙に不正確だ。事実は「A級戦犯容疑で収監されてたことがある」か「A級戦犯に指定されたが不起訴となった」か「A級戦犯としていったん起訴されたが無罪放免となった」か、なんかそんな感じ。釈放されたが、しかし公職追放の身分は昭和26年まで解けなかった。「公職追放」について知りたい人は、「公職追放とは」とかでググってください。
1948(昭23)年、太陽ロビンスは大陽ロビンスに改称。大映球団発足、連盟に加入申し込み。大映球団と東急フライヤーズが合併、急映フライヤーズに。金星が国民リーグ大塚と合併、国民リーグ解散。大映が急映フライヤーズから撤退、東急フライヤーズに戻る。
1949(昭24)年、急映から撤退した大映が金星スターズと合併、大映スターズに。
近畿日本鉄道が近鉄パールスを結成。近鉄にとっては、南海鉄道(現南海電鉄)合併当時の1944年-1947年(近畿日本→近畿グレートリング、現福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。とWikipediaにある。なんだかわかりにくいが、戦時中に関西の多くの鉄道会社(南海を含む)が合併してできたのが近畿日本鉄道、ということらしい。戦時企業統合政策というのがあって、新聞社にせよ鉄道会社にせよ、戦争中にはいろんな会社が合併させられた。戦後、旧南海鉄道の路線は別の会社に譲渡され、つまりそういうかたちで南海電気鉄道は再独立した。
それで近鉄パールスだが、「11月26日にパ・リーグに加盟。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者を中心に編成したが、選手層が薄く長らく下位に低迷」とのこと。ちなみに何故パールスかというと、真珠が伊勢志摩の特産品で、伊勢志摩が近鉄沿線だから。
この年はさらに西日本パイレーツ、毎日オリオンズ、広島カープ、大洋ホエールズ(本拠地は下関球場)、西鉄クリッパーズが誕生し、二リーグに分裂した年だ。大陽ロビンスは松竹に身売り、松竹ロビンスに。
1950年、日本女子野球連盟結成。「大阪ダイヤモンド」「ロマンス・ブルーバード」など、4球団。最盛期には全国25チームまで拡大したが、1952年に社会人野球へと形態を移行、日本の女子プロ野球は2年しか続かなかった。社会人女子野球はその後約20年間続き、1971年に自然消滅した。
