前章までのあらすじ:不如意なミートのせいで重く感じる、ということは、ある。たまたまそうなるだけではなく、ジャストミートが困難な球(あるいは投球術)というのも、ある。ジャストミートしても重い球、については、これから考える。
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回転の少ない球は重い、のか?
ネット上を探すと、野球における「ジャストミートしても重い球」について解説した例はけっこうあり、多くが自信を持って「回転の少ない球は重い」と言い切っている。仮に「回転が少ないと重い説」、略して「回転説」と呼ぼう。しかし、どういうメカニズムでそうなのか、という説明はなかなか見つからない。これだけ広範に主張されていながらまともな説明がほとんど見当たらないというのはどういうことなのか。
▼ボールの回転なのです。by 小松辰雄さん
Q:「ピッチャーの球で、球質が重いとか、軽いとか言いますが、同じ球なのに重くなったり、軽くなったりするの?」
小松さん:「球が重いとか軽いとかは、よく言われることでは、ありますが、もちろんボールの重さそのものが、変わるわけではありません。これは、ピッチャーの投げるボールの回転によって、バッターの打つ感触が、変わってくる事なのです。ボールの回転が多ければ多いほど、バットに当たった時、よく飛びます。これが、「軽いボール」と言われるものです。逆に、回転数の少ないものが「重いボール」と言われ、バットに当たっても遠くへは飛びづらいものなのです。まぁ、しかし、バットの芯でボールをとらえれば、ボールの回転(重い、軽い)は、そんなに関係ないことです」(プロ野球Kid's セミナー)
小松さんはこう言うけど、しかしどういうメカニズムでそうなのか。ネット上で典型的によく見かけるのは、「回転の多い球は弾き返す感じになるが、回転の少ない球は球の慣性がそのままかかるので打ち返すのが難しい」みたいな主張だ。何を言ってるのかぜんぜんわからない。「弾き返す感じ」とはどういうことか。回転の少ない球は何故弾き返す感じにならないのか。「球の慣性がそのままかかる」とはどういうことで、回転の少ない球だと何故慣性がそのままかかるのか。言ってる本人はわかってるのだろうか。「回転の多い球はよく弾ける、回転の少ない球は打ち返しにくい」と言いいたいらしいのはわかるが、「それは何故か」「何故そう思うのか」がわからない。
▼投げ方、握り方の違いで軽い球と重い球が生まれる
【質問】テレビでアナウンサーが上原投手を重い球といいましたが、どんなボールですか。重さが変わるのですか。教えてください。(川崎市多摩区 小沼 直也君=小5)
【答え】重い球や軽い球というのはピッチャーの投げ方やボールの握り方によって変わる球質のことです。技術的にはむずかしいので軽い球と重い球の説明をします。
「軽い球」はスピンの効いたキレの良い球と言われるもので、日本人投手に多く見られます。下半身を使って腕を弓のようにしならせて投げると、ボールにバックスピンがかかり、ホップする球になります。代表的なのが阪神の藤川投手です。ボールを軽く握ることで腕や手首、指がスムーズに可動し多くのスピンをかけることができるのです。しかし、スピン量の多い球は反発力が大きいためによく飛びますから、スピードがなくなると危険です。
「重い球」はボールを強く、深く握るために手首のしなりが使えずスピン量の少ない球となります。手が大きくて体力のある外国人投手に多く、パワー(腕力)で腕を振って投げます。160キロを投げる大リーグの投手の速い腕の振りは筋力が強い証明です。スピン量の少ない重い球は反発力が低いためバットのしんで打っても打者の手元にずっしりとした感触が残ります。
このように一つのボールから投げ方や握り方、筋力の強さなどの違いから軽い球と重い球が生まれるのです。
◆質問大歓迎 質問はメールかFAX03(3471)0092へ。
〈質問メールアドレス〉sho79@siren.ocn.ne.jp
自明のように「スピン量の多い球は反発力が大きい」とか「スピン量の少ない重い球は反発力が低い」とか書いてあるが、「それは何故か」「何故そう思うのか」は、いっさい語られない。どうしてみなさんこんなに自信満々なんだろうか。これを書いた人が「The Heavy Ball」を読み、そこに「スピン量の少ない球は反発力が小さいので重いのさ」なんて説がひとつも登場しないことを知ったら、多少は自信が揺らぐだろうか。(ここにあるメールアドレスはトーチュウの「江藤省三の新野球教室」に載ってるものと同じだ。もしかすると江藤さんが書いたのだろうか)
野球人が野球の奥義を野球独特の語彙と感性で野球的に開陳し、素人にはわからないだろうなあ、と言うなら別にいい。そういうのを聞くのは私も好きだ。だけど「スピン量の多い球は反発力が大きい」「スピン量の少ない重い球は反発力が低い」だなんてさあ、まるで科学の話みたいに聞こえるじゃないか。あえてそんなふうに語るなら、科学の言葉で科学的根拠を説明するのが当然ではないか。なぜそれが一言もないのか。
次は名球会の Q & A らしい。「野球技術探究」から無断で孫引き。
▼重いボールは伸びません。
Q1 球質が重い、軽いとは一体どういう差なのでしょうか。回転数の問題なのでしょうか。深く握ればよく、球質は重くなるといいますが、そのぶん球速が遅くなってしまうようなきもします。そして浅く握れば、球速は出ますが軽くなる?どっち立たずなのでしょうか。それとも根本的に別なものなのですか?それと、球質は生来のものでそうそうかえられないとも聞きましたが…。
A1 (回答者平松政次さん)投手が理想とするボールは、ボールに逆回転のスピンをより多くかけ、打者の手元で伸びるボールです。これを軽いと表現するならば、その軽いボールがいいです。重いボールは伸びません。もって生まれた体が大部分をしめますが努力によって球質は変えられます。
以下4つは2008年6月時点でのWikipedia「巨人の星 」の項にある記述。
▼球質の重さは、手首から先のスナップなどによる回転数の少なさで決まる
実際に球質の重さは、手首から先のスナップなどによる回転数の少なさで決まるため、上半身だけのウェイトトレーニングだけで重くすることは難しい。
▼ボールの軽さ・重さの真の原因はボールの回転速度にある
「身体の小さい投手の投げるボールは軽い」という間違った俗説は必ずしも本作のせいばかりではないが、根強く信じられた。もちろん物理学的には同じ重量の球を同じ速さで投げれば、バットに与える球の威力は同じであり、投手の体格に関係なく速い球を投げられれば球質は重いはずである。ただし、芯を微妙にはずすことなどによって同速度での重い軽いといった感覚的な違いを生むことはある。困ったことにこの漫画の論理を正しいと思っている日本の野球指導者は少なくない。『新・巨人の星』では一徹や花形は左投手としての飛雄馬の球質の軽さの原因は制球力にこだわりすぎたためや生来は右利きなのに無理に左利きにねじまげたせいのぎこちなさによるものと分析した。
▼体重と、球を打ってよく飛ぶかどうかは関係ない
1970年代後半の野球アニメ『一発貫太くん』を使った「学研まんがひみつシリーズ」の『一発貫太くん野球のひみつ』でも、「投げる人の体重と、球を打ってよく飛ぶかどうかは関係ない」ということが指摘されており、絵とキャラクターを変えて1993年に発行された改訂版でも同じ内容が説明されている。
▼アメリカの野球界には『球質が軽い』という言い方も概念もない
2003年発行のマッシュー・ファーゴ(Matthew Fargo)著『空想英語読本』の欄外注でも、「アメリカの野球界には『球質が軽い』という言い方も概念もない」と断定している。
「The Heavy Ball」という記事を読んだ今となっては「アメリカの野球界には『球質が軽い』という言い方も概念もない」という説は非常に疑わしく思えるが、同記事中の「アダム・メルヒューズは1997年に3Aで初めて『HEAVY BALL』という言葉を聞いた」「ボブ・ゲレンは1980年代の2Aで『LIGHT BALL』という言葉をはじめて聞いた」といった記述から考えて、日本ほど一般的でないことは間違いないと思う。日本で球の重い/軽いという表現を知らない人がプロ入りするなんてことはまずあり得ないだろう。
◆ ◆
「私を野球に連れてって」の「教えて!野球 > 重いタマ軽いタマ」では、一平カントクが理奈ちゃんに「回転の多い球は、作用反作用の関係で、回転してくる球の勢いをそのまま生かして飛ばせる(nobioによる要約)」、と語っている。残念だが、意味がわからない。なぜ回転の少ない球だと球の勢いをそのまま生かして飛ばせないんだろうか。「作用反作用の関係で」とは一体どういうことなのか。なんとなく「バックスピンの効いた球はボールが生きている状態だから打ちにくい、その代わり当たった時はよく弾む」みたいなことも書いてある。「生きている状態」とはたぶん前々ページで見たところの「キレがあってノビがいい」ということだろう。それはバットに当てにくいのだが、当たった時はよく弾む諸刃の剣だ、と。何故よく弾む(と考えられる)のかが知りたいのだが、それは「作用反作用の関係で」としか書いてない(でも「私を野球に連れてって」は歴史に関する記述が豊富で尊敬すべきサイトだ。なのであえて名前を挙げます)。
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1:作用反作用説
「PITCHING WORLD」のれっどさんは「回転量が多い分、バットに当たったときにその回転力が反発力へつながる」と言う。そうか、「回転のぶんだけ高エネルギーだからよく飛ぶ。つまり軽い」ということか。一平カントクが理奈ちゃんに言いたかったこともこれだろうか。
佐野真さんも『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書/2005年/\740)に下のような図を載せ、無回転の球の打球の強さはA’、バックスピンのかかった球の場合は打球の強さはC(A’とBの合力)となるので、A’単独よりも大きい(図で言うと、矢印が長い)。つまり弾きがよく、軽く感じる。これが作用反作用の法則(nobioによる要約)と、れっどさんと同じことを言っている。
しかし、この右の図は明らかに間違っている。A’はボールが受ける力で、Bはバットが受ける力だ。それを足すことにはなんの意味もない。観測所の調査では、この図のソースは『野茂のフォークはなぜ落ちる』(小岩利夫著/日本実業出版社)のようだが、『野茂のフォークはなぜ落ちる』のp.30に載っている図は、トップスピンの球だ。つまり小岩氏がその図で主張したいことは「トップスピンの球は飛びやすい」のようだ。佐野氏が回転の向きだけを、なぜだかわからないが(ほんとうはわかる。バックスピンの効いた球は軽い、という思い込みがあるからだ)勝手に逆向きに描き変えたらしい。 「よく飛ぶんだから矢印は当然上向きのハズだ」という思い込みのせいか、ベクトルを下向きに描き変えることは思いつかなかったのだろう。とにかく、描くなら下のように描くのが正しい。
この図で、C’はたしかにA’より長い。この原理で、回転の多い球は飛距離が(わずかにせよ)出やすい(というか、打球の初速が速い)という可能性はあると思う。
ただしかし、この原理でよく飛ぶとしたら、この原理で手応えも重い。CがAより長いからだ。つまりこの図の示すところは「回転の多い球はエネルギーが大きく、そのぶんバットを押すチカラも強いし跳ね返るチカラも強い、これが作用反作用の法則」だ。どう考えても「右の図の方が手応えが軽くてよく飛ぶ」ではない。
反作用のベクトルが短いほど重く、長いほど軽い、という理論が成り立つとしたら、遅ければ遅いほど重いことになる。遅い球はエネルギーが小さく、C’が短くなるからだ。クルーンの投げる160km/hよりバッティングピッチャーの投げる105km/hの方が重く、小学生が投げる20km/hはさらに鋼球のごとくズシリと重くて腕がビリビリ痺れるのか。逆に、時速180km や250km のウルトラ豪速球が存在するとすればそれはもうピンポン球のように軽いのか。おかしいでしょう。この理論では、回転は和田と同等で球速は和田をはるかに凌駕する松坂大輔は、和田よりはるかに球が軽いことになるが、その点を著者はどう考えているのか。
仮にジャストミートしても重い球というのがあるとしたら、変換効率の違いで説明するしかないと思う。「投球とバットのエネルギー」が「打球のチカラ」に無駄なく変換されるのが軽い球、手応えなどに奪われてそのぶん打球のチカラが目減りするのが重い球、というふうに。この左右の図で、変換効率の違いが表現されているだろうか。明らかにどちらも効率100%、いわゆる完全弾性衝突の図だ。つまり、変換効率を無視している。ここから「強くミートしたのに飛びにくい球」とか「軽くミートしてもよく飛ぶ球」なんてものに、そもそも結び付きようがない。この図から言えるのは「強くミートした球はよく飛ぶ」という、当たり前の話だけだ。
(でも「PITCHING WORLD」は尊敬すべきサイトだ。なんか興味深い。それにれっどさんはピッチャーじゃないらしいけど、れっどさんのピッチングフォームはハゲしくかっこいい。まるで中里篤史。『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』もおもしろい本だ。しかもサイズはコンパクトで値段は安い。なのであえて名前を挙げます)。
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2:パワー説
「回転の少ない球は空気抵抗による減速が大きい。だからスピンの効いた球と同等の終速を得るにはより強いパワーが必要。このパワーのぶん重いのである」というような説明もよく見かける。これが、上に見た作用反作用説の正反対であることに注意されたい。作用反作用説は「回転の少ない方がエネルギーが小さく、あまり弾まない。つまり重い」と主張している。パワー説は「回転の少ない方がパワーが大きく、つまりズシリと重い」だ。
- 「回転の少ない方がエネルギーが小さく、あまり弾まない。つまり重い」
- 「回転の少ない方がパワーが大きく、つまりズシリと重い」
言ってることが正反対なのに結論だけ同じなんだから不思議ですね。「回転の少ない方がエネルギーが小さいので、打っても軽く感じる」とか「回転の少ない方がパワーが大きく、したがって反発パワーも大きく、飛距離が出るので軽く感じる」とかいう説は何故存在しないのだろうか。
パワー説は要するに「回転の多い球と同等の終速を得るにはより速い初速が必要」「同等の終速なら、回転の少ない球の方が初速は速かった」というだけのことでしょう。「初速」を「パワー」と言い換えて、パワーという言葉の響きにダマされているとしか思えない。
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3:割り箸と針説
『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』には、作用反作用説と並べてこういう説も載っている。「回転の多い球はバットに当った時、力のかかる面積が広く分散される。一方回転の少ない球はピンポイントで力がかかり、そのためバットにかかる衝撃が強い。つまり手応えが重い。つまりバッターが力負けする。手のひらを割り箸で押すより、針で押す方が衝撃が強いのと同じ理屈(nobioによる要約)」。これも内容は作用反作用説の正反対で、結論(回転の多い球は軽い)だけは同じだ。
回転が大きい方が衝撃が弱い。何故かと言うと力のかかる面積が分散するからだ。何故分散するかについては、こういう図と、こういう解説が載っている。
左のイラストは、無回転のボールをキャッチャーミットで受け止めた時に、ボールがミットに与える力の及ぶ範囲を示している。一方、右のイラストは、スピンのかかったボールをキャッチャーミットで受け止めた時に、ボールがミットに与える力の及ぶ範囲を示している。右のイラスト…スピンのかかったボールの方が、ミットに与える力の及ぶ範囲が広いことがおわかりいただけるだろう。この原理を簡単に説明すれば、
・回転のかかったボールは、加えられた力が回転によって分散するので、力の及ぶ範囲が広くなる
ということになる。
たしかにこの図は「回転が力を分散させる」という見解を図示している。そこに「回転が力を分散させることがおわかりいただけるだろう」という解説がついている。これは例えば、オタマジャクシが次第にペンギンに変わっていく図に「オタマジャクシがペンギンの子供だということがおわかりいただけるだろう」と書いてあるようなものだ。この方式ならなんでも書ける。必要なのはその見解の、根拠だ。ここで根拠らしきものは「回転によって」の一言以外に見当たらない。「簡単に説明すれば」ということだが、いくらなんでも簡単過ぎないか。
「おとうさん、回転のかかったボールは何故、力の及ぶ範囲が広く分散されるの?」
「うむそれは、回転によって力の及ぶ範囲が広く分散されるんだよ」
途方もない簡単さだ。物理的解説のキモとも言える部分を、何故ここまで極端に簡単にする必要があるのか理解できない。一体この図は何だろうか。何かの実験の結果か、キャッチャーを対象にしたアンケートの結果か何かなのか、「力の及ぶ範囲」とは何をどうやって測定したのか、それとも実験じゃないとすると、「力の及ぶ範囲」が何故わかるのか。と言うか、実験じゃないとしたら、何故バットじゃなくてキャッチャーミットで説明しようとするのか。あまりにも謎が多い。
著者はこのあたりの解説に先立ち、参考図書として「手塚一志氏、姫野龍太郎氏の共著『魔球の正体』(ベースボール・マガジン社)、姫野龍太郎氏著『魔球をつくる』(岩波書店)、小岩利夫氏著『野茂のフォークはなぜ落ちる』(日本実業出版社)」を挙げ、「より詳しい原理を知りたい方は、この三冊をご一読いただきたい」と断り書きを付けている(p184)。より詳しい原理を知りたくて読んでみた結果、「作用反作用説」と「割り箸と針説」の元は『野茂のフォークはなぜ落ちる』だ、ということがわかった。しかし残念ながら同書を読んでも、『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』に感じる疑問がそのままスライドするだけで、それ以上の情報は何も得られない。
◆ ◆
もちろん、「何も証拠はないが、仮にカクカクと仮定して話を進めてみよう、するとシカジカになる訳だ」みたいに推理を進めてみるのも悪くはない。火曜サスペンス劇場なんかでも「待って。坂崎さんと実和子さんが、仮に愛人関係にあったとしたらどうかしら」「なるほど・・・辻褄は合う。おい、すぐに2人の接点を洗えっ」みたいな展開はしょっちゅうある。だから仮定まではいいとしよう。さらなる問題は、「だとすれば衝撃が弱くなる」という理屈がぜんぜん納得できないことだ。同じエネルギーが広い範囲に分散すれば、確かにバットが受ける「単位面積当りの力」は減る。しかし、「バット全体が受ける力」は減らない。それでどうしてバッターの手応えが軽くなるのか。
◆ ◆
この「割り箸と針説」の直後で、上記「作用反作用説」が語られる。つまり著者の(あるいは小岩氏の)主張はこうだ。
回転の多い球はバットにかかる衝撃が弱いからバットが力負けせず、よく飛ぶ。その上、
回転の多い球はバットにかかる衝撃が強いから反作用も強く、よく飛ぶのである。
失礼ながら、言ってることがむちゃくちゃだと思う。
私は『野茂のフォークはなぜ落ちる』を、「作用反作用説と、割り箸と針説のソースは何」という疑問の究明のためだけに買ったので、全部はちゃんと読んでない。たぶん的確なこともたくさん書いてあるんだろう。ただ、この二説に限って言えば、ずいぶんアヤシいと思う。理由はもう書いた。小岩利夫氏の経歴を見ると、大学の物理学科を出た物理の先生のようだ。専門家を尊敬することにしている私としてはひじょうに困惑せざるを得ない。私が間違っているなら喜んで訂正するが、いまのところ「物理の先生の言うことでもおかしいものはおかしい」としか言いようがない。
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4:バットを上に弾く説
バックスピンのかかった球は衝突の瞬間バットを上向きに弾くから、バットにかかる重力が軽くなる、それで手応えが軽い、という意見を読んだことがある。軽いバットの方が軽い力で楽に振れるのはたしかだ。それでこういう説が出るんだろうか。しかし「軽い力で楽に振れる」かどうかは質量で決まり、重力とは関係ない。たとえ無重力空間でも、重いバットを振るには大きな力を要するのである。それにこの理屈だと、「回転の少ないストレート」よりも「回転の効いたタテに落ちるカーブ」の方が重いことになるのではないか。
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「かなりの衝撃があったハズ」
以上見た4つの説のうち、1は半分納得できた。しかしそれは「球質の軽さ」ではなく「チカラの強さ」の説明としてだ。で、1(の半分)以外は全部たわごとでしょう。「バカバカしいUFO目撃談」をいくつ挙げたところでUFOの存在を否定したことにはならないが、代表的なUFO目撃談がバカバカしければ、とりあえず疑わしいと思った方がいいんじゃないか。東幹久が先日(2006年5月)、真っ昼間の表参道ヒルズ前の歩道橋で巨大なUFOを目撃したそうだ。「ダウンタウンDX」という番組で本人が語っていた。ちゃんと聞いてなかったのが悔やまれるが、たしか表参道の上空数メートル(数十メートル?)の超低空を、表参道の道幅いっぱいのサイズのデッカイ円盤が滑るように進み、青山通りを右折だか左折だかして消えて行った、たくさん人がいたのに彼以外誰も気付かなかった、という話だった。ほんとうだろうか。まあそれはカンケイないんだが、どうもここまでのところ、「回転が少ない球は重い」とする「バカバカしくない説」は発見できない。何故みんな「重い球質と軽い球質が存在する」「それは回転による」という話を、疑わないのか。東幹久の目撃談をそのまんま信じるようなもんじゃないか。
◆ ◆
再び『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』だが、P.188にこうある。
無回転のまま130キロのスピードで飛んでくるボールと、鋭くスピンがかかって飛んでくる130キロのボールがあるとしよう。スピードは同じだが性質の違う、この二種類のボールをバットで打ったら、どちらをより遠くまで打ち返すことができるだろうか? 野球経験者なら即座にお分かりになると思うが、答えは”スピンのかかったボール”である。
無回転のボールを打った時には、バットを持った両手にかなりの衝撃があったはず。しかしスピンのかかったボールを打った時の衝撃はそれほどでもなく、気持よくボールを打ち抜けたことだろう。
「あったはず」とか「打ち抜けたことだろう」という表現が、さりげなく体験的裏付けを感じさせる。私の体験ではそうだった、みなさんもそうでしょ、という雰囲気だ。経歴を見ると著者は大学時代に野球をやっていたらしい。なるほどそれなら、無回転の130kmやスピンの効いた130kmを日常的に打って体感してたんだろう、と、つい思わされるが、実際どうなんだろうか。「鋭くスピンがかかって飛んでくる130キロのボール」というと、甲子園に二年連続出場し、ベスト8まで行った高校時代の和田毅のストレートだ。それが球速以上に非凡で球速以上に打ちにくい、というのはこの本のまさに中心的な主張である。大学野球の選手としては無名であったらしい著者が、そんな超プロ級(?)の球に日常的に接していたというのはなかなか考えにくい。接したとしても、ジャストミートできたんだろうか。なんか話がアヤシくないか。
「鋭くスピン」とは言っても和田クラスとまでは言ってないよ、ということだろうか。では「無回転のまま130キロのスピードで飛んでくるボール」の方はどうか。手塚一志/姫野龍太郎共著『魔球の正体(ベースボールマガジン社/\2000)』には、P.54-62にかけてこういうことが書いてある。上述の通り、これは著者自身が参考文献として挙げている本だ。
ナックルとパームは投げ方は違うが球は同じで、要は無回転のボール。杉下茂のフォークも対戦した打者の証言によるとほぼ無回転だったらしいので、ナックルと呼んでもいい。通常ナックルは時速80km程度、速くてもせいぜい100kmだが、杉下茂のフォークは120km以上、そりゃもう魔球と呼ぶしかない。プロのバッターでもまず打てない。杉下茂のフォークをヒットできたのは長嶋茂雄ただひとりだ、と杉下茂自身が語っている。(この部分の著者は姫野龍太郎。それをnobioが要約)
杉下茂のフォークの球速をどうやって判断したのかわからないが、ともかく姫野氏の見解では、無回転で120kmのボールはとんでもない魔球だという。そんなら「無回転で130km」なんて、魔球を超えた超魔球ではないか。そんな球の打球感を「野球経験者なら即座におわかりになる」と、佐野氏は当たり前のようにさらっと書くが、わかる訳がない。そもそも佐野氏自身は無回転の130kmと対面したことがあるのか、それすらかなり疑わしいではないか。
なにしろ無回転の球は、通常時速80km、速くてもせいぜい100km、杉下茂でも120kmなのだ。「無回転の130km」なんて、杉下茂もフィル・ニークロもキャンディオッティもティム・ウェイクフィールドも投げられない。それを自在に投げる投手が日本の大学野球界にいたのか。なのにその投手は無名で終わったのか。で、いたとして、「『長嶋茂雄以外誰もヒットできなかった球』よりもさらに時速が10km上の超魔球」を、佐野氏は自在にミートできたのか。あり得ないだろう。
べつに佐野さんを攻撃したい訳ではないが、納得いかない点は納得いかない。どうしてこれほど杜撰に話を進めて平気なのだろうか。どうもやっぱり、梶原の魔法にやられてるせいじゃないか、と疑わずにいられない。梶原の魔法については後述する。
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被本塁打率は何を示すか
引き続き『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』について。
この本の大半は、和田毅という人の青春の軌跡を追いつつ、人柄や野球哲学や人との出会いを描いたドキュメンタリーだ。著者は和田の恩師とか、かつてのチームメートなどにも精力的に会って取材しており、かなりおもしろい。一方「なぜ打ちにくいか」という話は分量として三割ていどに過ぎず、しかもその点について、現役のプロ野球人たちに会って取材した形跡も、ほぼ全く、ない。たぶん「なぜ打ちにくいか」は、ついでなのだ。しかし、敢えてその「ついで」の部分にフォーカスしたタイトルを付けてる以上、そこを検討するのも的外れではないだろう。
◆ ◆
なぜ打ちにくいのかについて、同書の解答は「バックスピンが効いたストレートだから」だ。それに異論はない。そういう仮説があってもいいでしょう。和田本人も「僕の生命線は真っすぐのキレ」みたいなことを常々語ってるそうだし、打者の証言からしても、きっとバックスピンが効いたストレートなんだろう。私だったらたぶん、大体こんなふうに書く。
・記録や証言からすると和田の真っすぐの特徴はコレコレ。
・ノビとかキレとか言われる現象の物理的正体はコレコレ。
・つまり和田の球の特徴は物理的には、たぶんコレコレ。
実際この本の『第五章 驚異のストレートの秘密』も、そんな雰囲気で始まる。ちなみに私が持ってるのは第一刷です。
P.162-170
多くの証言によると和田の真っすぐは初速と終速の差が小さいらしい。
P171-173
バックスピンは球をホップさせる(ように見せる)効果がある。
P174-179
和田の真っすぐはジャイロボールか? 違う。きれいなバックスピンらしい。
P180-182
和田の真っすぐはキレがある。初速と終速の差が4-5kmしかないらしい。
P183
それでは初速と終速の差の小ささを生むものはどんな物理運動なのか?
P184-185
鍵は回転数ではないか。「見たこともない強烈なスピン」という数々の証言がそれを裏付ける。
そろそろ「バックスピンが初速と終速の差の小ささを生む」メカニズムが語られるのかと思った。そういう雰囲気ではないか。ところが話は意外な方向へ向かい、
P186
しかし、「それ(数々の証言)はあくまで状況証拠に過ぎない」という反論もあると思うので、ここで「被本塁打数の多さ」という物的証拠を挙げたい。
「物的証拠」として、和田は奪三振も多いが被本塁打も多い、2003年は26本(リーグ三位)、2004年は23本(リーグ二位)、つまり球質が軽いのである、と言う。それも状況証拠だろ、と突っ込みたくなるがそれはともかく、そこからこうなる。
P186-188
ア:和田は被本塁打が多い。つまり球質が軽い。
P189-193
イ:「作用反作用説」と「割り箸と針説」から、軽い球イコール回転数の多い球だとわかる。
P193
ウ:したがって和田のストレートの回転数は多いと結論できる。
全然納得できない。イが怪しいことはすでに述べた。ここでは主にアについて。
◆ ◆
本塁打の打たれやすさを比べるなら、被本塁打数じゃなくて被本塁打「率」を比べるべきだ。被本塁打数を投球回数で割るのがいいのか打者数で割るのがいいのかそれとも球数で割るのがいいのか、或いは被安打数で割るのがいいのか、それはわからないけど。数だけで言うと、和田の「2003年:26本、2004年:23本」なんて全然大した数字ではない。「プロ野球データ管理室」の、ペナントレース記録>シーズン記録>投手ランキング>シーズン被本塁打ベスト20によると、1977年の広島カープ池谷公二郎は被本塁打48本、1985年阪急ブレーブスの山田久志は被本塁打42本だ。
それはいいとしても、松坂については説明すべきだろう。著者は和田と並んでストレートの回転数が多い投手の代表例として松坂大輔の名を何度も挙げているのだから。よく知らないけど、松坂大輔って被本塁打が少ないので有名なんじゃないか? ちなみに2003年は13本、2004年は7本。被本塁打率でいうと松坂は高い方なんだろうか、低い方なんだろうか。もし松坂の被本塁打率が低い方なら、著者の論理で言うならばそれは松坂の球質が重いことの証明で、それはまた、松坂のストレートの回転数が少ないことの証明になっちゃうじゃないか。
また、「2003年26本(リーグ三位)、2004年23本(リーグ二位)」が驚異の回転数の「物的証拠」だとするなら、2003年29本で被本塁打リーグ一位となった後藤光貴はどうなのか。さらに、同年27本で二位、翌2004年24本で一位となったミラバルは。著者の論理で言うならばこのふたりは和田を上回る超驚異の回転数を持つことが証明されちゃうわけだが、そう理解していいのか。
[註:後藤光貴は2000年ドラフト7位で大和銀行から西武ライオンズに入団、2005年3月に河原純一と交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。しかし2005年10月24日、読売から戦力外通告を受けた。ミラバル(CARLOS MIRABAL)は2002年に日ハム入り、2005年には開幕投手を任されるほどに期待されたが、開幕から三戦連続敗戦投手となり、4月9日早々と登録抹消、アメリカに帰国し、7月にそのまま解雇された]
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| 被本塁打数の比較 |
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| 2004年の松坂 | ||||||| | 7本 |
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| 2003年の松坂 | |||||||||| ||| | 13本 |
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| 2004年の和田 | |||||||||| |||||||||| ||| | 23本 |
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| 2004年のミラバル | |||||||||| |||||||||| |||| | 24本 |
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| 2003年の和田 | |||||||||| |||||||||| |||||| | 26本 |
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| 2003年のミラバル | |||||||||| |||||||||| ||||||| | 27本 |
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| 2003年の後藤光貴 | |||||||||| |||||||||| ||||||||| | 29本 |
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| 1985年の山田久志 | |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| || | 42本 |
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| 1977年の池谷公二郎 | |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||| | 48本 |
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それは違う、としたら、松坂やミラバルや後藤の被本塁打数にはそれぞれ、真っすぐの回転数とはまた別の要因があるということだ。そんなら和田の被本塁打数も別の要因のせいかも知れないではないか。例えば球速が遅いせいだとか。落ちる変化球がないせいだとか。抜け球が多いとか。内角を厳しく突かないとか。内角を付いたつもりの球が甘くなりがちだとか。制球が甘いとか。精神面とか。例えば「理想のピッチングを追究しよう」と考えるピッチャーと「なんとかどんなカタチでも粘ろう」と考えるピッチャーでは結果が微妙に変わってくる、とかいうような、ポリシーの持ちようだとか(山本昌が今中慎二と自分を比較してそんなようなことを言ってるのを読んだことがある)。フォームとか。たまたまだとか。状況判断力とか。捕手とか。どうしてそのどれでもなく、他の何でもなく、球質が軽いことが主因だと言えるのか。と言うかそれ以前に、
「球質が軽い」という現象は本当に存在するのか。存在する、と言える根拠を、著者はひとつとして示し得ていない。と私は思う。
この本によると回転数は測定すればわかるらしい。もし測定して「和田と松坂はともに真っすぐの回転数が多い」という結果が出て、かつ、「和田の被本塁打率は平均より高く、松坂は平均より低い」としたら、とりあえず「直球の回転数と被本塁打率は無関係」と考えざるを得ないわけだが、その点、著者の見解はどうだろうか。
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不思議なことに、「何故、バックスピンが『初速と終速の差の小ささ』を生むのか」(あるいは「何故、バックスピンが空気抵抗を減らすのか」)について、本書ではついに、一言も語られない。
「何故、バックスピンが『ホップ』を生むのか」についてはひと通りメカニズムの解説がある。「何故、ジャイロスピンが空気抵抗を減らすのか」についても、いやジャイロスピンが空気抵抗が小さいなんて必ずしも手塚一志氏は言ってないと思う(手塚説では2シームジャイロは空気抵抗がきわめて大きいんじゃなかったけ。私の理解が違うのかも知れないが)が、それはさておき著者は「ジャイロスピンは空気抵抗を減らす」という自らの見解を述べ、理由についても、「図を見てイメージしてもらえば、納得していただけると思う」というまことにテキトーなものながら、一応言及はしている。つまり、「理由が必要だ」という意識は感じられる。和田とジャイロボールは結局無関係ということになるのだが、それでもジャイロボールについて6ページを費やす。
一方で「何故、バックスピンが空気抵抗を減らすのか」については、ただ「この驚異的な回転数は、通常では考えられないレベルの”初速と終速の差の小ささ”をも生み出」すのだ、と結論だけが書いてあり、解説はいっさいない。理由は不明だ、みたいな記述もないので、「理由が必要だ」という意識自体ないようだ。ふつうに考えればいちばん肝心なところなのに。少なくともジャイロボールの話より大事でしょう、ジャイロボールは和田と関係ないんだから。
たまたま私は空気抵抗をめぐる姫野龍太郎さんの研究のことを知ってたのでいいんだけど、知らない人はこれで納得できるのだろうか。普通の読者はそんなことを疑問に思わないのだろうか。
kaiten-setsu wo utagau:04
マミちゃんのおでこは大丈夫か
内野席で野球を観てるとよく、ギュルーンッと激しいスピンがかかったファールボールが飛んで来る。シュルシュル音がするヤツ。いわゆる「生きている状態 (?)」だろうか。あれは実速以上に怖くないですか。
「回転の多い球は軽い」論者のみなさんに訊きたい。
あなたはあれを素手でひょいと捕って、いやー、強いスピンの球って一見怖そうに見えるけど、実際は凄く球質軽いんだよねー、と言う自信があるのか。あなたはあれが娘のマミちゃん(5歳)のおでこに向かって飛んで来ても平然と見てて、ほらね、作用反作用の関係で回転のエネルギーが弾き返すエネルギーにきれいに変換されるから、当った感触も全然ないだろ、とか言う自信があるのか。「作用反作用の関係で球質は軽いが、表面摩擦で皮膚が傷付くのだけが心配」だとすれば、マミちゃんがヘルメットかぶってれば大丈夫なのか。あのファールは「実速の割に驚くほど軽い」んですか。ほんまですか。何故そう思うんですか。私は「実速の割に驚くほど怖い」と思うのですが。
kaiten-setsu wo utagau:05
フォークはズシリと重いのか
「無回転」かどうかはともかく、我々の知ってる代表的な「回転の少ない球」は上述の通り、ナックルとパームとフォーク、番外として小宮山悟の「シェイク」だろう。これらの球が「重い」という主張(または証言)を聞いたことがない。たまたま私が聞き逃してるだけなのだろうか。「あそこはフォークを読んでいたので完璧にミートできた。怖ろしいほど重くて、まるでボーリングの球を打ってるみたいに感じたけど、力負けせずに強く振り抜けました。最高です」とか「前田幸長のナックルはジャストミートすると鋼球のように重いんだぜ」とか、聞いたことありますか。ないでしょう。逆に「高めに浮いたフォークはいちばん飛ぶから、その意味ではピッチャーにとって怖い球ですよ」みたいな解説なら山ほど聞いたことある。
マーク・クルーン(Marc Jason Kroon、2005年から横浜ベイスターズ)のフォークは140kmを越すそうだ。フォークなんだから回転は少ないんだろう。そして速い。回転の少ない球が重いなら、クルーンの高速フォークこそ究極の重い球ではないか。クルーンの高速フォークは来日以来何度かホームランされている。「重いので驚いた」「腕全体がビリビリしびれた」なんてコメントは聞いたことがない。回転の少ない球は重い、と主張する人は、このあたりを説明する責任があるのではないか。このあたりを説明してる人がいないのは何故なのか。「回転の少ない球は重い、というのは迷信だから」と考えるのが、とりあえず合理的だと思うんだが。
▼追記:小岩利夫著『力学プレイボール』(時事通信社/1992年/\1300)に、高田繁氏の「経験では、フォークボールのような、比較的回転の少ない球が重く感じるのだが・・・」という証言が載っている。巨人軍栄光のV9戦士にして、さだまさしの「朝刊」にも出てくるあの高田だ。高田さんは著者と顔見知りで、かねがね疑問に思っていた「球の重さの不思議」を、物理の先生である小岩さんに尋ねてみたのだそうだ。私なんかこれを書いてる間じゅうつねに「物理の先生に意見を訊いてみたい」と思っているので、高田さんの気持ちはものすごく共感できる。私として不思議なのは、そう尋ねられた小岩先生が、「それはツマったときに重いんじゃないですか」、という可能性を、ぜんぜん考えなかったらしいことだ。「回転の多い球は力のおよぶ面積が広く分散されるのでバッターの手応えが軽くなる」という小岩説は、申し訳ないが、何度考えても珍説としか思えない。
kaiten-setsu wo utagau:06
打者の見解は信用できるか
野球経験者の「実際、回転の少ない球は重いんだよ。おれらみたいにちょっと本格的にやってみりゃわかんよ。シロウトさんの理屈なんか意味ないよ」みたいな声は根強い。佐野真さんも大学で野球部だったらしい。その上で
無回転のまま130キロのスピードで飛んでくるボールと、鋭くスピンがかかって飛んでくる130キロのボールがあるとしよう。スピードは同じだが性質の違う、この二種類のボールをバットで打ったら、どちらをより遠くまで打ち返すことができるだろうか? 野球経験者なら即座にお分かりになると思うが、答えは”スピンのかかったボール”である。
無回転のボールを打った時には、バットを持った両手にかなりの衝撃があったはず。しかしスピンのかかったボールを打った時の衝撃はそれほどでもなく、気持よくボールを打ち抜けたことだろう。
と書く。おお、オレの経験でもそうだったよ、という方はけっこう多いのではないか。しかし失礼ながら、今のところあまり信用する気になれない。理由はもう書いた。
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それと、そういう意見の人は私が知る限り全員日本人であり、「The Heavy Ball」には「回転の少ない球を打つと重く感じるのさ。理由? さあな。オレは物理学者じゃないからね。Don't ask me why, but it's so.」とか語る人がひとりも出てこない。
これは「多くの日本人は回転説を唱えるが、多くのアメリカ人は不如意説を唱える。さてどっちが正しいか」というような対称性のある話ではない。何故なら不如意説には日米問わず誰でも同意するだろうからだ。一方回転説は(それとクリス・シャンブリスの語る「深く握ると重くなる」なんかも)そうではなく、言うなれば特殊な説だ。
大体、こんな話題に地域差があることが不思議だ。梶原の呪縛とベーゴマの記憶(後述)(と「ドカベン」?)のせいで、「回転の少ない球は重い」という日本独特、あるいはアジア独特の迷信が形成されたんじゃなかろうか。さらに現在ではプロスピだかパワプロだか知らないがそんなような日本製電脳野球ゲームが、日本の伝統を拡大再生産しているのではないか。そのため多くの日本の野球少年は、経験する前からあらかじめそういう結論を胸に抱いているのではないか。みなさんは経験を通してそう感じたのではなく、はじめからそう思い込んでいたせいで、そう感じたのではないか。・・・・と、いうのが合理的な解釈だと思うんだけど、どうでしょう。
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もうひとつ。ジャストミートしても重いかどうかを知るには、ジャストミート同志で比べるしかない。打者はどれほど「完璧なジャストミート」体験があるのか。「数年に一度の快心の当り」とか「プロに入ってから一番の当り」とか「練習でもない当たり」とかいう打者のコメントをたまーに聞く。あれがほんとうなら、理想的なタイミングで理想的なポイントで理想的な角度のジャストミートは非常にマレ、ということになる。ゴルフで言えばホールインワンやアルバトロスのようなものだろうか。
理想的なジャストミートが数年に一度とか年に数度しかないとしたら、引退までに一体何人の投手を比べられるのか。それどころか、仮にアルバトロス並だとすれば、大半の打者は生涯一度も理想的なジャストミートを味わうことなく引退していくのではないか。それを考えると「球のチカラ」を巡る打者たちのコメントは果たして信用に値するものなのか、はなはだ心許なくなってくる。思ったほど飛距離が出なかった時に、「理想的なジャストミートをしたのに球にチカラがあった」のか「自覚できないほど微妙にタイミングがズレた」のか、打者は判定できるのだろうか。どうやって。「もちろん判定できる」と打者が主張した場合、それを信用できるだろうか。どういう根拠で。
kaiten-setsu wo utagau:07
梶原の呪縛とベーゴマの記憶
皮膚呼吸ができないと窒息する、という説があり、西暦2008年現在、若い人は知らないかも知れないが、若くない人はかなりの割合で信じている。ヤングな私でも半ば信じていたが、実際はそんなことでは死なないらしい。言われてみればそりゃそうだ。そんなことで死ぬんじゃあ長風呂もできないし潜水もできない。オイルマッサージなんて危険極まりない。
この説の起源はイアン・フレミング作の世界的に有名なB級ゴージャススパイアクション美食ギャンブルエロ小説「007」シリーズ(「故ケネディ大統領が愛読した」と書いてある)第七作、『ゴールドフィンガー』(1959年)だ。黄金にフェティッシュな執着を見せる悪の大富豪「ゴールドフィンガー」。その悪行を暴くべく接近を謀る諜報部員ジェームズ・ボンド。そこに現れた、ゴールドフィンガーの命を狙う謎の若い女、ティリー(当然美女)。ティリーはゴールドフィンガーに姉を殺されたのだと言い、「あいつは毎月新しい女を手に入れ、麻酔で眠らせ、全身に金ペンキを塗って楽しむのよ」「金を抱いてるような気になるのさ。わかるでしょ。用が済むと1000ドルやっておっぽり出すんですって」「背骨のとこだけは塗らないでおかなければいけないんですって。すっかり塗られたら、肌の毛穴が呼吸できなくなって死んじまうのよ」「私の姉は体中すっかり塗りつぶされたせいで死んじまったのよ。同じような事故が、以前にもあるキャバレーで起きているんですって。皮膚科の先生がそう教えてくれたわ」(井上一夫訳/1973/ハヤカワ・ポケット・ミステリより、大意)と語る。
ちなみに、他にも「高飛び込みの選手は繰り返し頭蓋を強打するので、そう長くは続けられない」だの「酔った女を連行する時は、下唇をねじ上げるように摘むのが意のままに引っ立てるコツ(と、ロシアの格闘術教本に書いてある)」だの、本気だか嘘八百だかわからないチャーミングなウンチク(しかも話の進行に関係ない)がいろいろ出てくる。
ご存知の通りこの小説は映画化され、こちらも世界的に大ヒットした(1964年。日本公開は翌65年《昭和40年》か?)。「全身を金で塗られて窒息死する女」のエピソードは、小説では妹の話の中に間接的に控えめに登場するだけだが、誰かがよほどこのアイデアを気に入ったのだろう、映画では金の女の死体を前に、「皮膚呼吸できなかったんだ。キャバレーなんかでも稀にある。背中だけでも残しておけば大丈夫なんだが、全身だとまず助からない」とかなんとかショーン・コネリーが語るらしい。
皮膚呼吸を封じるのが水やオイルやワセリンやローションやハチミツだったら、「は? そんなことじゃ死なんだろ」と誰もが思っただろうが、金粉、というのが非日常性と不思議なリアリティを兼ね備えていて、妙な説得力がある。きな粉と鱗粉と金粉は何故か息苦しい。喉の奥に貼り付きそうだ。Wikipediaによれば映画のスタッフもみな金粉皮膚呼吸窒息説を信じ込んでおり、このシーンの撮影には医師を立ち会わせたのだという。だとすればスタッフのみならず、立ち会った医師も信じていたのだろう。「全身を金で塗られて窒息死する女」の図は映画公開当時の各種ポスターにも世界中で使われ、この映画を象徴するビジュアル・イメージとして定着した。2008年現在でもビデオやDVDのジャケットに使われている。よくできた面白い作り話は、こんなふうにして世界に広まるのである。


イアン・フレミング
Ian Lancaster Fleming による007シリーズ小説一覧(Wikipediaによる)
- 『カジノ・ロワイヤル』Casino Royale(1953年)
- 『死ぬのは奴らだ』Live and Let Die(1954年)
- 『ムーンレイカー』Moonraker(1955年)
- 『ダイヤモンドは永遠に』Diamonds Are Forever(1956年)
- 『ロシアから愛をこめて』From Russia, With Love(1957年)
- 『ドクター・ノオ』Doctor No(1958年)
- 『ゴールドフィンガー』Goldfinger(1959年)
- 『サンダーボール作戦』Thunderball(1961年)
- 『わたしを愛したスパイ』The Spy Who Loved Me(1962年)
- 『女王陛下の007』On Her Majesty's Secret Service(1963年)
- 『007は二度死ぬ』You Only Live Twice(1964年)
- 『黄金の銃をもつ男』The Man With the Golden Gun(1965年)
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「人は強い恐怖なり絶望なりをくぐると、一夜にして髪が真っ白になる」と言う噂があるが、先日たまたま見た「都市伝説をマジメに検証する!」みたいな趣旨のテレビ番組によると、この伝説のはじまりは池田理代子不朽の名作『ベルサイユのばら(1972年連載開始/週刊マーガレット)』なんだそうだ。栄華に浸って生きてきたマリー・アントワネットの運命は暗転、テュイルリー宮に軟禁される。決死の脱出でオーストリア逃亡を目指すが国境の手前ヴァレンヌで捕まり、パリへ送還される。
「あ・・・・あ・・あ・・ 私の髪・・・」
5日間の逃避行の恐怖はマリー・アントワネットの美しかったブロンドを老婆のような白髪にかえてしまっていた・・・
このヴァレンヌ事件自体はどうも史実らしい(よく知らない)が、恐怖で髪が真っ白になったというのは池田理代子が発明した漫画的フィクションだ。しかしみんなこれにハマッた。語り継がれる名場面。模倣され、バリエーションを生み、ついには、ベルばらなど読んだことない人を含む多くの日本人がなんとなく皆信じている、という状態にまで定着してしまった。
(BOOK-OFFで買ってベルばら読んでみた。むちゃくちゃおもしろいけど、しかしこの場面限定で言えば、これがそんな歴史に残る名シーンなのかピンと来ない。だってブロンドが白髪に、と言うけど、ブロンドも絵柄の上では白いんだよ。だから見た目変わってないの。なんだこりゃ)
燃え尽きると真っ白に、というと『あしたのジョー(梶原一騎原作/1968[昭和43]年連載開始/週刊少年マガジン)』のラストシーンも有名だ。「精神的なショックで髪が1夜(或いは1試合)で真っ白に」というのは『ベルばら』と『あしたのジョー』を発祥とする、日本固有のフィクションなのである。どこまで信用していいのかわからないが、少なくともその番組の調査では、「人は強い恐怖なり絶望なりをくぐると、一夜にして髪が真っ白になる」なんて言われてるのは日本だけらしい。
で、そこで思うのが同じ時期同じ梶原一騎原作『巨人の星(1966[昭和41]-1971年週刊少年マガジン / TVアニメは1968-1971年よみうりテレビ系)』ですよ。父、一徹の野球英才教育を受けて育った星飛雄馬の投げる球はむちゃくちゃ速く、その上、神の如きコントロールを備える。ところが永遠のライバル花形満は、あるとき飛雄馬の致命的な欠陥に気付いてしまうのだ。
「星君、きみの球は軽いっ!」
ほんっとーにもう致命的に軽くて、これがバレちゃった以上、とんでもないオリジナル大魔球でも発明しない限り、飛雄馬の投手生命はおしまいなのだった。無茶苦茶速くてしかもコントロールが神なのに、ですよ。ありえねー。しかし当時は多くの、ほんとうに多くの少年たちが拳を握りしめてそれを見ていた
(そう言えば『巨人の星』のマンガってほとんど読んだことない。私にとっての『巨人の星』はテレビアニメだ。『ベルばら』もアニメの方が影響大きかったのかも。アニメの絵ではたしかにブロンドはブロンド色だったようだ。これが真っ白になったら、絵柄上インパクトあったのかも知れない)。
梶原一騎と言えばカラテや柔道やプロレスや野球について、「荒唐無稽なデタラメだが知らない人が聞くとじつにもっともらしく聞こえる偽トリビア」を無数に発明した偉大な漢だが、「むちゃくちゃ速いけどむちゃくちゃ軽い球質」というのもそのひとつなんじゃなかろうか。
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もっとも、「速いけど軽い球質」の存在自体は戦前から広く信じられていたらしい。「リトモ・ベースボール・クラブ」→「綱島プロ野球研究所」→「OB INTERVIEW」→苅田久徳インタビューで、苅田さんが「沢村英治は速いったって、あんなのはカモ。球が軽いからよく飛んだ。やっぱり球が重かったのはスタルヒン」というふうに語っておられる。戦前の回想だ(沢村英治は大戦で戦死している)。さらに、『沢村栄治記念館』にも、沢村とスタルヒンの「球質」を巡る大量の証言がある。
苅田久徳:沢村の球は速いけど軽かったね。150キロは出てたけど、打てばギューンと飛んでった。
島秀之助(金鯱軍):球質は軽かったので、当てただけでもよく飛びましたね。もっとも、当たればの話ですがね。
藤村富美男(タイガース):確かにスタルヒンは速かったよ。ズドンという重いボールで威圧感ちゅうものがあった。しかし何とかバットに当てることはできたんだよ。ところが沢村のいい時は、高目のボールがグーンと伸びてきてかすりもせん。
井野川利春(ブレーブス捕手):沢村のボールはスパッと小気味はよかったけど、軽くて怖さはなかった。しかしスタ公(スタルヒン)のはミットがズシンズシンと響く感じで捕るのが怖かった。速くて怖いボール。一番はスタ公だよ。
戦前からこういう声がある以上、『巨人の星』が起源というわけではないらしい。ただ、それでも「速いけどむちゃくちゃ軽い球質」の存在を世間に印象づけた決定打が『巨人の星』、という可能性は残る。アダム・メルヒューズやボブ・ゲレンはプロに入ってから初めて「HEAVY BALL」という言葉を聞き、奇妙な言葉だなあ、と思ったと言う。日本で球の重い/軽いという表現を知らない高校球児は、たぶんいないんじゃないか。やはりアメリカ人は『巨人の星』を見てないからじゃないかなー。(もっとも、現在の日本球児はパワプロだかプロスピだかで最初に刷り込まれるのだろう)
さらに、『巨人の星』が「軽い理由は強烈なスピン」「回転の多い球は軽い」という迷信の起源だという可能性も捨て切れない。『巨人の星』の中で、飛雄馬の球が軽い理由は主に「体重が軽いゆえ」と説明され、強烈なスピンが原因だなんて話は一言も出て来なかった。飛雄馬の投げる球にはつねに強烈なスピンがかかり、図柄上ギュルーンと、ギュワーンと、大きく歪んでいたにもかかわらず、だ。これは「回転の多い球は軽い」という話が、昭和40年当時、なかった、あるいは少なくとも、主流の説ではなかったことの証拠じゃなかろうか。少なくとも『沢村栄治記念館』の多くの証言にも、「回転の多い球は軽い」なる説は出て来ない。
星飛雄馬の「速いけど致命的に軽い球質」をめぐる悲劇の物語は、恐らくは沢村栄治を下敷きにイメージされたものだ。その奇妙な説得力と、ギュルーンとギュワーンと表現された烈しいスピンのビジュアルが視聴者の中で科学反応を起こし、「回転の多い球は軽い」という、『巨人の星』には出て来ない珍説が、出て来ないにもかかわらず、『巨人の星』から発生したのではないか。(ちなみに巨人の星には、ノビだのキレだのも出て来なかったような気がする)
不動産屋なんかによく、透明でゴツいクリスタルガラスの灰皿が置いてある。サスペンスドラマで殺人の凶器に使われたりするヤツだ。あれを星飛雄馬が掴んで、時速150kmで投げるとする。それが自分の額めがけて飛んで来るとする。それがほんっとーにもう致命的に軽い球質(?)の灰皿なのでぜんぜん怖くない、当たっても危険じゃない、なんてことがあり得るだろうか。おかしいだろうそれ。どう考えてもあり得ない。
尊師梶原とは関係ない(と思う)が、迷信と言えば「腹当て身で味方を気絶させる」ヤツ、あれもどうかと思う。2006年6月現在のWikipediaには「時代劇などで、腹部を打って気絶させる技も当身の一つである。 (但し、非常に難しい)」と書いてあるが、誰がどういう根拠で書いてるのだろうか。個人的には「非常に難しい」どころか、完全にフィクションじゃないかと思う。ボディを食らって気持ちよく気絶するボクサーなんて見たことない。
『巨人の星』から遅れること6年、1972年に水島新司『ドカベン』の連載が始まる。賀間剛介以外にも、「巨漢投手が岩のように重い球を投げる」みたいな設定は何パターンかあったと思う。
さらに7年。1979年に怪物江川卓がデビューした。物凄い球を投げる一方、何故か被本塁打が多かった。世間に「速いけど軽い球質」の存在を印象づけた最後の決定打、それは江川卓だったのかも知れない。
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「巨人の星」と並んで気になるのは、「ベーゴマ」の存在だ。ギュルーンッと強力に回転するベーゴマがカベにゆっくりぶつかると、ぶつかった瞬間に激しい勢いで跳ね返り、潜在パワーに驚かされたりすることってあるでしょう。「回転の多い球は生きている状態なので反発力も強い」みたいな意味不明の説が日本でだけ特殊に根強いとしたら、ベーゴマの伝統も関係あるのではないか。コマはべつに日本固有でもアジア固有でもなく世界中にあるが、男の子たちが「ベーゴマ」という勇ましい遊びに夢中になる風景は、昭和中期までの日本に特有だったのかも知れない。確証はないが、「現在では、日本が世界一の独楽王国といわれています」と書いてあるページもある。私のイメージとしても、トマス・スタビンズとかハリー・ポッターとか、トム・ソーヤとかハックルベリー・フィンとかクリス・チェンパーズとかがベーゴマで遊ぶシーンを想像するのは難しい。なんとなくアレは、倉敷とか松山とか東京とかに似合う。台北とかチェンマイとかハノイとか、上海とか満州とかジャカルタとかにも似合うような、気もする。もしかするとベーゴマの本家は日本なのではないか(単なるカン)。関根潤三さんとか豊田泰光さんとか大沢親分とかはたぶん、濃厚なベーゴマ体験があるだろう。
日本が本家なのかどうかはともかく、強力に回転するベーゴマはたしかに「反発力」が強く、いかにも「回転が多いと『生きている』状態なのだ」と感じさせる。それにベーゴマは最後まで回ってたヤツの勝ちなので、その意味でもまさに「回転力・イコール・生命力」なのだ。